検索結果
検索ワード:「インドネシア香料諸島」 全部で109件見つかりました。
-
ナツメグの次は丁子 VOC、全盛期迎える
バンダの人々は、オランダ東インド会社(VOC)の総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンによって完全にその勢力を削がれた。生き残ったオラン・カヤ(有力者)たちは、捕獲されて鎖につながれ、クーンの旗艦内に監禁された。そこで共謀罪で不当な裁きを受...
-
抵抗するバンダ人 容赦ないオランダ
バンダ諸島のロンタール島を征服したオランダ東インド会社(VOC)の総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンに対し、島の数人の主なオラン・カヤ(有力者)が船上のクーンを訪ね、金の鎖、銅製の鍋を携え講和を求めた。クーンは、全てのバンダ人の砦(とり...
-
総督クーンが支配 オランダがバンダ征服へ
バンダの運命は、「力だけが正義で、バンダ人、イギリス人そしてバタビア人を滅ぼす力と権限を持っているのは自分だけだ」と信じている自信に満ちたオランダ東インド会社(VOC)の総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(1587~1629年)に委ねられ...
-
【続・香料諸島の旅(歴史編)】⑱ オランダが待ち伏せ攻撃 イギリス人船長死す
1620年10月、ロンタール島でオランダ人に対する島民の蜂起があり、全島を騒乱に巻き込んだという知らせを受け、イギリス人の船長、コートホープは元気づけられた。うわさでは彼らはコートホープの一隊に合流して、オランダ人に全面攻撃をかける気でい...
-
オランダの包囲網に抵抗 イギリス人船長の戦い
ただ不幸なことに、イギリス人の船長コートホープが死守しようとしたルン島とナイラカ島には、モンスーンの雨水から取る以外の淡水がなく、魚以外には食料もなかったので、長期の封鎖には弱かった。果物や野菜すら充分ではない。他にはサゴヤシがあるだけだ...
-
オランダの手、逃れたルン島 イギリスが死守
イギリス人の船長コートホープが、不屈の精神でルン島を死守しオランダと対抗してきたエピソードは大変興味深く、当時の英・蘭間のナツメグの島の争奪戦をほうふつとさせる話なので、少し長くなるがここに紹介しておきたい。 イギリスは1613年には...
-
アイ島を征服 オランダ軍が支配
バンダ諸島に次にやって来たオランダ東インド会社(VOC)の総督は、前任者がVOCの重役会である「17人会」から受けていたのと同様の指令を受け、バンダ人に全てのスパイスをオランダに提供することを要求した。一方バンダ側は、オランダに対して新旧...
-
続く英・蘭の勢力争い バンダ人はイギリス側へ
バンダ人はオランダとの新しい条約が締結された日からあらゆる機会を捉えて、条約内容に違反するような行為にでた。ネイラ島とロンタール島がオランダに取られたことに反発するように、ルン島とアイ島の住民はオランダにずっと敵意を持っていた。そういう中...
-
わなにはまったオランダ人 バンダ人の策略
オランダ東インド会社(VOC)の提督ピーテルスゾーン・フェルハーフェンは、これまでよりシステマティックなスパイスの倉庫と、敵からの防衛体制を強化するための要塞の必要性を感じ、バンダ諸島のオラン・カヤ(有力者)と交渉したが、同意を得られない...
-
招かれざるよそ者 オランダへの抵抗
オランダ人がやってきたとき、バンダ諸島の人々は約50万本の木を家単位や村単位で管理していた。下生えや枯れ枝の除去、南洋アーモンドと呼ばれるカナリを植えて強い太陽光線からナツメグの木を守ることが必要であった。なお、カナリはアーモンドに似た食...
-
オランダの圧力 バンダ諸島で独占契約
オランダの提督ヘルマンゾーンはイギリス人を脅かしたり、時には無視しながらナツメグ・メースの独占購入権を得るべくバンダ人に圧力をかけていた。オランダによる独占契約を結ぼうとロンタールとネイラ島だけでなく、バンダ諸島全島に及ぶようしつこく交渉...
-
アジア依存型からの脱却 英蘭の東インド会社
イギリス東インド会社(EIC)やオランダ東インド会社(VOC)にいう「東インド」とは、コロンブスが1492年に発見した西インドと区別した当時の地域名称で、現在の東南アジア全体と言って良い。ただ、そのカバーする領域はアジアに限定されたもので...
-
英、バンダに拠点 地元も歓迎
イギリスのフランシス・ドレイク卿の船団は、テルナテで大量の丁子を持ち帰り英雄として迎えられた。彼は香料だけではなく金・銀・真珠などもたっぷり持ち帰ったが、その大半はスペインとポルトガルの船から略奪したものだった。1588年にはスペインの無...
-
最強の「株式会社」登場 オランダが次々商館建設
オランダ人はバンダ諸島ロンタール島に本国から持ち込んだ商品を貯蔵し、ナツメグ・メースおよびアンボンから運ばれた丁子と交換することにした。品質、価格が千差万別で、少量のスパイスしか提供できない地元の多くの人々との交渉に難儀し、結局のところ、...
-
香料取引に参入 オランダ人の到来
ポルトガル人がバンダ諸島のネイラ島で砦(とりで)の建設を取り止めたのは、土地の有力者がポルトガルが広めようとしたキリスト教に関心を示さなかったので、ポルトガル人宣教師の熱意が冷めたことに加え、バンダ人がナツメグの取引によそ者の参入を許さな...
-
マラッカからバンダへ ポルトガル人の到来
長年にわたりマレー、ジャワ、中国、アラブの商人たちがマルク諸島の香料をスポット買いし、それをペルシャ湾まで海上輸送、そこからキャラバン隊で地中海まで運び、コンスタンチノープル、ジェノバ、ベネチアまで届けていた。その経由する土地ごとの幾人か...
-
バンダ人「生存」の要 ナツメグで衣食を入手
ヨーロッパ人がやってくる前、中国人、マレー人、ジャワ人がマラッカに来ていた。中国のある歴史書によると、14世紀にはマルク諸島は既に知られていたが、丁子の生産高はまだそう多くはなかった。マルク諸島の住民は、喜んで中国人に産品を売った。中国人...
-
料理だけでなく医療にも ナツメグ・メースと丁子
香料としてのナツメグは、種子を2カ月ほど日干しして作られ、粉状にするか、圧縮して油を取る。メースも同様に日干しされる。古くからナツメグ・メースは、料理の味付けに使われた。ナツメグはまた病気の治療薬としても重宝される。脳を活性化したり、血の...
-
住民共有の財産 地域限定の香料
丁子の島であったテルナテ、ティドレが強力なスルタン王国であったのと異なり、バンダには強力な権力を持った王はおらず、オラン・カヤ(裕福な人という意味)と呼ばれる地域ごとの指導者・長老が居たのみであった。バンダ諸島に初めて到来したヨーロッパ人...
-
【続・香料諸島の旅 歴史編】②長く「未知の土地」 ジャカルタから2600キロ
香辛料と言えば、代表的なものはこしょうと丁子、ナツメグである。こしょうはインド南西部のマラバル地方原産で、ジャワ、スマトラでも採れるが、丁子とナツメグは香料諸島と呼ばれるマルク諸島(インドネシア語でクプラウアン・マルク、英語ではモルッカ諸...
-
【続・香料諸島の旅 歴史編】① 再びハードな離島へ 絶妙な3人旅
文明の地から遠く離れた小さな島々が、世界の歴史の中でこれほど大きな役割を果たしたことは、他にあったであろうか? それは、ヨーロッパ人が渇望したナツメグ・メースがインドネシアの赤道直下に浮かぶバンダ諸島にしか採れなかったことによる。2016...
-
涼しい空気に包まれ ボロブドゥールとお別れ
最初にここを訪れたのは1978年であった。その時はボロブドゥール寺院に続く道沿いに古い民家が並び、軒先の合間からこつぜんとこの巨大な遺跡が現れたのが印象的で、深く記憶に残っている。今はこのように美しく整備された公園になっており、我がホテル...
-
現代でも至難の技 200万個の石で造営
ここでボロブドゥール寺院について簡単にまとめておきたい。 ボロブドゥール寺院は、ジョクジャカルタの北西42キロ位置する世界最大級の仏教遺跡である。近くのヒンドゥー寺院であるプランバナンと共に世界遺産になっており、インドネシアではバリ島...
-
朝霧漂う幽玄の世界 未解明の建造物も
ボロブドゥール寺院の頂上でご来光を待つ。太陽の昇る東の方向を見る。ボロブドゥールから東25キロの距離にあるムラピ山(標高2930メートル)の右裾野に太陽が昇ってきた。山の頂上から噴煙が上がり、北の方に流れているのも見える。ムラピ山よ! 噴...
-
進む寺院の再建 未解明の建造物も
ここ中部ジャワは地震や火山の噴火などの天災の多い地域である。最近では、プランバナン寺院は2006年のジョクジャカルタ地震の際に、石造彫刻物の一部破損やがれきの散乱による被害を受けたが、構造上の大きな被害がなかったのは幸いであった。14年の...
-
悲願の独立果たす 350年のオランダ支配から
1815年、フランスのナポレオンがワーテルローの戦いで完敗し、セントヘレナ島に幽閉され、ナポレオン戦争が終結すると、イギリスは東インド植民地をオランダに返還することになり、オランダによるインドネシア植民地支配が再開した。 蘭印政府の総...
-
世界遺産を訪ねて プランバナンへ 番外編①
北マルク州のテルナテを午前8時15分にたち、ジャカルタ経由の便でジョクジャカルタにほぼ定刻の午後1時半過ぎに到着した。今回の旅は、香料諸島をメーンとしたが、久しぶりにインドネシアに来たので、この国の誇る世界遺産である仏教寺院、およびヒンド...
-
忘れられる存在に 植民地政府が誕生
テルナテとティドレのスルタンとその臣下たちの生計はオランダ東インド会社(VOC)からの俸給に頼っていたので、住民たちはスルタンをVOCのとらわれのように見ていた。そういう中ではあったが、1780年ティドレのヌク王子(1738~1805年)...
-
またいつの日か
午前8時15分発のフライトでジャカルタ経由ジョクジャカルタに向かうため、テルナテのホテルを午前6時過ぎに出ると、ちょうど日の出直後の朝焼けの写真が撮れた。昨日は夕焼けを西の空に見た。今朝はハルマヘラ島方向の東雲に上る太陽を拝めた。どちらも...
-
移植された丁子、ナツメグオランダ独り占め終わる
オランダの独占権のおよばない所では、少量ではあるが取引が続いていた。テルナテ、ティドレや、そこから移植されたハルマヘラ、セラムなどの丁子は、マカッサルやマニラ、ポルトガル領の東ティモールなどに密輸されていた。とりわけマカッサル港は、ジャワ...