バンダ人「生存」の要 ナツメグで衣食を入手

 ヨーロッパ人がやってくる前、中国人、マレー人、ジャワ人がマラッカに来ていた。中国のある歴史書によると、14世紀にはマルク諸島は既に知られていたが、丁子の生産高はまだそう多くはなかった。マルク諸島の住民は、喜んで中国人に産品を売った。中国人はジャワ人と同じルートをたどって、ジャワの布、銀、鉄、象牙、ビーズ、それに青磁の皿や鉢をマルク諸島に持ってきた。
 14世紀以降は、これらの商品を中国人と直接取引することは少なくなっていたようだが、それには理由がある。中国人はマラッカで香料を確保できるようになったからだ。マラッカでの値段は高かったが、マルク諸島やグレシック(ジャワ島東部、スラバヤの北西。香料交易で栄えた良港)まで航海するコストを考えると、マラッカで購入するほうを選んだのである。マラッカがポルトガル人の手に落ちた1511年以降も中国人はマルク諸島まで来ることはなかった。
 交通の要衝となったマラッカをポルトガルが支配し、そこからマルク諸島にやって来るのだが、最初に乗り入れたのはナツメグの実る島々の浮かぶバンダ海であった。バンダ諸島の中で一番大きな島であるロンタール島は、ナツメグを最も多く生産し、四つの港を持っていた。その隣のネイラ島はジャワ商人にとって重要な取引拠点となり、港を持たない他の島の産品はこのネイラ島に送られていた。
 バンダ諸島にはナツメグのほか、ココヤシと幾種類かの果物以外には農作物と言えるものはなかった。香料の木の所有権は誰に属するのか。個人が所有するものか、住民共有のものなのか、またどの程度が支配者のものかは、明確ではなかったようだ。丁子やナツメグを収穫し商品化するのは大変な重労働であったが、住民の収入は少なく、彼らは慎ましい生活に甘んじなければならなかった。これは、食料品を外島から手に入れるために収入の大半を必要としたからである。香料の取引でより多くの収入を得たのは、仲買人、土地の有力者、そして関税を徴収する港の役人たちであった。
 当時の主食であるサゴヤシは、主にバンダ諸島から東方にあるアル島とカイ島から購入した。バンダ人がその対価として払ったのは、香料との物々交換でジャワ人やマレー人から入手した布であった。同じくジャワやマレーから運ばれた米と食材はバンダで消費された。輸出用にナツメグを増産した結果、バンダ人の日用必需品の需要は質・量ともに高まっていった。米を植えるのはナツメグ用の土地を減らすことになるので、差し控えられた。自家消費用の布も、外からの輸入に頼っていた。このようにナツメグのおかげで、食べ物と衣服を手に入れることができたと言う意味で、ナツメグはバンダ人の「生存」の要であった。
 サゴヤシは時に、バンダ人の支払い手段として使われていたようだが、16世紀初めごろからはナツメグに代わっていったことがオランダ人の記録に残っている。アル島とカイ島からはサゴヤシの他に金やぜいたく品、特にはく製のインコ、極楽鳥が入ってきた。ベンガルの商人を経由して、これらのはく製はトルコやペルシャ人の手に渡り、主に頭の飾り羽根として使われていたらしい。
 16世紀初めごろには、バンダ人がマラッカまで商取引のための航海をしていたことが知られている。ただバンダ人の船乗りは遠洋航海には不慣れで航海技術は低く、船は木製のいかりを使用したといい、マラッカへの行き帰りに海の藻くずとなってしまった船も多かったようだ。そのような状況の中、ポルトガル人がやって来た。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)

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