続く英・蘭の勢力争い バンダ人はイギリス側へ

 バンダ人はオランダとの新しい条約が締結された日からあらゆる機会を捉えて、条約内容に違反するような行為にでた。ネイラ島とロンタール島がオランダに取られたことに反発するように、ルン島とアイ島の住民はオランダにずっと敵意を持っていた。そういう中、イギリスはルン、アイ両島でナツメグを買い続けていたし、セラム、アンボン、バンダ間を行き来していた。
 アイ島の住民が特にイギリスに協力し、同島のナツメグだけではなく、他の島のナツメグもオランダの目をかいくぐって、イギリス側に流れるように協力した。土地の商人は、海上やナッサウ要塞からのオランダの監視を恐れることなく、ナツメグを西ジャワのバンテン港やマカッサルの闇市場まで運び、イギリスやポルトガルに売っていた。
 オランダ人は、島民に畏敬の念を抱かれないことに加えて、イギリス人があざけるような態度をとることにいら立っていた。1610年にバンダに来たイギリス東インド会社の船長デビッド・ミドルトンは、勇敢にもオランダの大砲が届くネイラ沖にいかりを降ろした。
 当時オランダは、バンダ住民に押し付けた条約を守らせるのに躍起で、スパイス貿易の独占状態をなんとしても続けようとしていた。ミドルトンはオランダ総督に、バンダでのスパイス取引を容認するよう要請するが拒絶され、アイ島に向かった。この時には逆風のためアイ島には到着できなかったが、後に同島に行き地元のジャンク船をチャーターしないといけないほどの大量のナツメグを買い入れた。
 ミドルトンは地元のオラン・カヤ(有力者)がオランダとの協定に署名を拒んだアイ島とルン島でナツメグ取引を進めていくことにした。160キロほど北のセラム島に基地を作り、そこからアイ島にピンネース船を出せば、オランダの攻撃を受ける心配は少ない。アイ島に無事に商館を建て、ピンネース船はナツメグとメースを積んでセラム島との間を行き来した。ミドルトンの航海は成功したと言ってよい。一方、オランダとの同盟に反対していたこれらの島の住民は、イギリスが商人を送ってくるだけで、オランダに対抗する力を示そうとしないことに不満を持っていた。
 バンダ人によるイギリス宛の手紙が残っているが、恐らくこれはイギリス側が代筆したもので、公開する狙いで書かれたものであろう。その趣旨は次のようなものである。「イギリスの王のみが世界を助けることができる。オランダと違ってイギリスはヨーロッパからアジアに来る過程で平和裏にことを運んでいる。この国を征服しようとしているオランダは皆に憎まれている。イギリスと同盟を結びたい。オランダと戦うためにネイラの砦(とりで)を奪うのを手伝って欲しい。我々の産品はイギリスだけに売りたい」
 現地の実際の感情はどうであったのかは別にして、ルン島の人々、それにアイ島の住民も1616年頃にはイギリスを認めることになったようだ。イギリス人を敬うというのではなく、オランダよりは良さそうなイギリスを受け入れ、1国よりは2国を顧客として持つことを選んだのであろう。
 オランダ東インド会社(VOC)の初代の総督でもあり船長、商人でもあったピーテル・ボート(1568~1615年)が、1611年にテルナテのオラニェ要塞からバンダにやって来た。1609年に作られたナッサウ要塞は背後の丘の上から容易に攻撃されやすいとの弱点に気づき、ナッサウ要塞と新しく発展しつつあったネイラの町を見下ろす丘に、より強固な要塞を建設した。これがベルギカ要塞で1611年に完成している。その後の1660年に大きく建て替えられ、さらに1673~78年の間に改修と拡張工事をして、バンダ諸島における最重要な要塞となった。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)

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