わなにはまったオランダ人 バンダ人の策略

 オランダ東インド会社(VOC)の提督ピーテルスゾーン・フェルハーフェンは、これまでよりシステマティックなスパイスの倉庫と、敵からの防衛体制を強化するための要塞の必要性を感じ、バンダ諸島のオラン・カヤ(有力者)と交渉したが、同意を得られないまま強引に建設に着手した。750人の兵士を使い、ロンタール島に面するネイラ島の海岸沿いを選んだ。そこは80年前にポルトガルが砦(とりで)を築こうとして途中で放棄した場所であったので、ポルトガルが残した巨大な石の基礎を利用できた。
 砦の建設が始まると、ネイラの住民はそれまで住んでいた家を捨て、森の中や近くの島に逃げた。1609年5月、オラン・カヤたちはオランダとの契約見直しについて話し合いたいと申し入れ、オランダは、オラン・カヤがオランダと敵対するより、取引を進めることを選んだのだと思って、話し合うことを受け入れた。ところがこの申し出は、バンダ側の策略であり、オランダ人はわなにかかってしまった。
 森の中に誘導されたフェルハーフェンと四十数人のオランダ人が殺害された。この部隊に参加していた若い商人ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(後の第4代および第6代VOC総督)は、この1609年の「卑劣なバンダ人の裏切り」(これはオランダ側の表現である)を目撃したに違いない。クーンは自分が犠牲者の一人になっていたかもしれないこの事件のずっと後の1621年に、このようなバンダ人の反抗が二度と起こらないようにするのである。
 フェルハーフェンの死にショックを受けた生き残ったオランダ人は、新しいリーダーにシモン・フーン提督を選び、バンダ人がすぐにでも次の攻撃を仕掛けてくるのを恐れ、要塞の建設を急いだ。これが1609年に完成したナッサウ要塞である。オランダはマカッサル人を仲介役としてオラン・カヤと和解し、1609年8月にはフーン提督の旗艦の上で、オランダとオラン・カヤ間の講和条約が締結された。条約には「以後ネイラ島はオランダの領土として永久に保有される」と記されていた。さらに「全ての入港する船舶はオランダの要塞沖で検査を受けるため停泊しなければならない、いかなる島しょ間の航行もオランダの許可を得なければならない、オランダの許可なしでバンダネイラに居住することはできない」というものであった。こうしてバンダネイラは東インドでオランダが支配権を獲得した最初の土地となった。
 なお、VOCは1619年にバタヴィアに本部を移すまでは、アンボンのビクトリア要塞に本部を置いていたので、上に述べたようなバンダ諸島への進出の指揮はアンボンから執られていたものと思われる。
英・蘭の戦いの始まり
 オランダのフーン提督はイギリスから来ていたキーリング船長に手紙を送って、オランダがネイラ島を占有することの条約をバンダ人と結んだことを知らせ、5日以内にバンダ諸島を去って、二度と立ち戻らないよう命じた。キーリングは大量のスパイスを買い付けてバンダ諸島を去るが、アイ島にはイギリスの商館を永久に残しておくつもりだった。オランダは完成間近のナッサウ要塞に強力な駐屯隊を配置し、倉庫にスパイスを満たし、商人を留めた。「英・蘭の戦い」の始まりである。
(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)

香料諸島の旅 の最新記事

関連記事

本日の紙面

イベントカレンダー

JJC
採用情報

人気連載

ぷらんぷらんNEW

イ日写真展10年の軌跡NEW

有料版PDFNEW

日本から帰って

HALO-HALOフィリピン

別刷り特集

アジア大会

忘れ得ぬ人々

スナン・スナン

お知らせ

企業進出/新規投資

日イ国交樹立60周年

JJC理事会

修郎先生の事件簿

ビジネスマンの護身術

これで納得税務相談

企業戦略最前線

不思議インドネシア

おすすめ観光情報

為替経済Weekly