【続・香料諸島の旅(歴史編)】⑱ オランダが待ち伏せ攻撃 イギリス人船長死す
1620年10月、ロンタール島でオランダ人に対する島民の蜂起があり、全島を騒乱に巻き込んだという知らせを受け、イギリス人の船長、コートホープは元気づけられた。うわさでは彼らはコートホープの一隊に合流して、オランダ人に全面攻撃をかける気でいるという。コートホープにとってはまさに待ちかねていた知らせである。
彼はすぐにロンタール島に行って、イギリス人に教え込んだ精神を原住民にも教えることにした。彼は夜陰に紛れてロンタール島に行く危険を顧みず、マスケット銃を扱い慣れた部下を連れ、5日で帰るからと言いおいて出発した。
ルン島に裏切り者が居た。その男はオランダ人で、ネイラにいるオランダ人総督に、コートホープが島を出たことを知らせた。総督は即刻行動を起こした。ピンネース船に重武装をほどこし、「イギリス人の厄介者を殺せ」という命令を与えた。オランダ人兵士は日が暮れると同時に船を出し、アイ島沿岸から3キロほどの所で待ち伏せした。
オランダ兵はコートホープの小舟を見つけると一斉に攻撃の火ぶたを切った。コートホープ側も撃ち返したが、2隻の船で攻撃を仕掛けてきた50人を超えるオランダ兵のむき出しの標的だった。コートホープの最期は、一瞬のできごとであった。「胸に銃弾を受け、着衣のまま船べりを超えた」。それが、彼の生きた姿を見た最後だった。これはオランダ側の記録によるものであるが、イギリス側の記録では、「泳いで逃げようとして溺れ死んだ」とある。
コートホープの死後、オランダ人は抵抗されることなくルン島に上陸し、島にあるイギリスの二つの砦(とりで)から大砲を取りはずして、岩場に投げ落とし使いものにならないようにした。原住民に、現地の習慣にのっとり水盤に入れたナツメグの木をオランダ人に捧げさせた。地元のオラン・カヤ(有力者)にすれば、公然たる侮辱であった。イギリスのセント・ジョージの旗を引きちぎり、オランダ旗を掲げた。ルン島に隣接する環礁ナイラカだけはイギリスの保持が許された。そこはナツメグの木がなかったから、オランダ人には無用であったのだ。
数カ月後にはイギリスの仲買人が、以前ほどの勢いはなかったが戻って来た。このような状況で、オランダは、バンダ人やイギリス人にオランダ東インド会社(VOC)による香料の完全な独占を認めさせることができず、バンダは極めて不安定な状況であった。
オランダが完全にコントロールできたのはネイラ島に限られている。そこには、解放奴隷やVOCを去ったオランダ人および中国人が住んでいたが、ナツメグの生産量は少なく、保有コストは高かった。後述するが、1619年にはバンダだけでなくバタビアにおいても大きく状況が変わっていった。
コートホープについての記述は、主にジャイルズ・ミルトン著、松浦伶訳「スパイス戦争」(朝日新聞社)から抜粋した。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)