パレンバン落下傘部隊 26歳の死 記憶消え行く戦後70年

 年配の日本人にとって、パレンバンはよく知られた地名だと思う。ハワイの真珠湾攻撃、シンガポール陥落とともに、パレンバンの落下傘部隊降下作戦は、第二次世界大戦初期に日本が大勝した戦いとして大きく報道され、日本国内での戦意を高揚させた。
 スマトラ島南部にあるパレンバンには、オランダ植民地時代にインドネシアの85%の石油を生産していたプラジュ油田とロイヤル・ダッチ・シェル製油所があった。資源のない日本が戦争をする上で油田を制圧し、石油供給基地を確保することは、日本軍の南方作戦における最も重要な戦略目標だった。

■日本人墓地を訪ねて
 私は今年6月、日本テレビが企画した戦後70年の特別番組の取材に同行し、プルタミナの石油基地などを撮影するためパレンバンを訪れた。日本人墓地も訪ねた。納骨堂の中には落下傘部隊の名簿も残っていて、他の人と一緒に供養されている。案内をしてくれた地元の日本人会長の渡辺剛さんによると、隊員名簿の最初に書かれている蒲生清治さんの娘さんがジャカルタで暮らしているという。
 ジャカルタに戻って蒲生アサ子さんに会い、清治さんの話を聞いた。
 蒲生清治(かもう・きよはる)は、私の父ではなく叔父です。父から聞いた話では、先祖は江戸時代に薩摩藩の島津家に仕え、叔父も鹿児島で生まれました。叔父は西郷隆盛を尊敬し、武道や体操で体を鍛え、軍人になるのが夢でした。文学や歌も好きだったそうです。鹿児島で志願兵として陸軍に入り、千葉県の習志野にあった空挺部隊に移りました。しかし落下傘部隊員や小隊の隊長だったことは外部に漏らさなかったため、後に知らされました。
 戦記によると、1942年(昭和17年)2月14日朝、500人の日本軍挺進隊(落下傘部隊)はマレーシア南部のカハン飛行場を飛び立ち、マラッカ海峡を横断、スマトラ島を海岸沿いに南下し、パレンバンを目指した。低く垂れこめる雲を潜るようにしてパレンバン上空に侵入、落下傘降下が始まったとき、通常高度の半分以下の約200メートルという低空だった。地上の連合軍はオランダ軍と英軍を合わせ2千人だった。第2中隊の蒲生清治中尉は飛行場の西側に降下した。
 陸軍による事前の調査では、落下傘で着地する場所は平地で草地でした。ところが2月は雨季のため胸まで水に浸かる湿地になっていて、草がぼうぼうでした。隊長ですから一番に飛び降り、着地後は3人が1組になり深い草むらをかき分け進みました。
 しかし待ち構えていた敵兵との戦闘が始まりました。手りゅう弾を防空壕の中に投げ入れたりしたそうですが、叔父は正面から腹部を撃たれました。銃弾は貫通したそうです。まだ26歳の若さで亡くなりました。
 アサ子さんはお父さんから聞いた話を私にしてくれた。遺骨や軍服や日本刀など遺品は回収され、鹿児島にある墓には落下傘の図柄も刻まれているという。
 戦記によると、降下した第2中隊60人のうち蒲生中尉以下7人が戦死した。パレンバン作戦での日本兵の戦死者数は34人、全員が20代の若者だったと記されている。
 一晩続いた戦闘の後、連合軍はパレンバンを放棄した。日本軍の奇襲作戦は成功し、製油所を制圧した。そのニュースは翌日から日本国内で大勝利と大々的に報道された。そして落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれ、戦意高揚の小説が書かれ映画が製作された。

■「落下傘部隊は初耳」
 パレンバンに滞在中、日本軍の落下傘部隊のことを知る人を捜した。しかし日本軍が製油所を制圧したことを知る人はいても、70代や80代の人に聞いても落下傘部隊は初耳だという答えが返ってきた。20年前に私がパレンバンを訪れたときは、何人かの落下傘降下を見たという人に会えた。しかし70年以上たった今では難しいことなのかも知れない。
 インドネシアの教科書に落下傘部隊のことは書かれていない。
 テレビ番組は8月4日(火)午後9時から放映される日本テレビ系「戦後70年特別番組」(www.ntv.co.jp/sengo70/ )。この中で、パレンバン製油所の話が放送される。司会は池上彰さんと櫻井翔さん。(紀行作家・小松邦康、写真も)

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