【人と世界/manusia dan dunia】  日イの出会い作り30年  栃木インドネシア友好友の会の上野さん

 上野勝二郎さん(七二)は十一月、中部ジャワ州トゥマングン県を訪れた。農家が多く近郊には田園が広がり、東南の方角にはムラピ山がそびえる。ジョクジャカルタから車で約二時間の田舎町。教師四百人対象の教育セミナーで講演し、人生の目標などについて話した。講演はトゥマングン県で教職に就いた教え子、ジョニー・ムルヨノさんから頼まれた。
 宇都宮在住。インドネシア語の通訳、翻訳業を手掛ける個人事務所を構え、日本に十人いない法廷通訳人でもある。同時にインドネシア駐在を控えた日本人にインドネシア語を、研修で日本を訪れるインドネシア人に日本語を教えてきた。
 企業や工場から授業の依頼があればに出向く。群馬県太田市の中小企業が会員の太田自動車内装品協同組合にも呼ばれた。「研修生に日本語を教えて」。一度試しにと引き受けた授業は、月二回、二〇〇九年まで十八年間続いた。
 日本語だけではない。土曜の朝から夕方までの講義は、研修生にとって日本の文化や生活習慣を知る貴重な時間になった。教え子は同組合だけで約三百人。ジョニーさんもこの組合の研修生だった。

■スカルノ氏から激励
 拓殖大学でインドネシア語を学んだ。インドネシアからの賠償留学生が日本の各地の大学で学んでいた一九五〇年代。積極的に留学生の輪に入っていった。五九年のある日、リーダー格の留学生から「明日は背広を着て来てくれ」と言われた。東京のインドネシア大使公邸に連れて行かれると、来日中のスカルノ初代大統領が在日インドネシア人との交流会に出席していた。
 インドネシア語で話し掛けたところ、感心したスカルノ大統領から「両国の架け橋になってくれ」と声を掛けられ、握手を交わした。このときから「人生は人と人のめぐり合わせ」が持論。言葉の勉強にも力を入れるようになった。
 卒業後、インドネシアを専門とする商社からの誘いに飛びついた。語学力が買われた。卒業二年後には念願のインドネシア駐在員に。ジャカルタで銅像の設置などに関わった。一九六五年の「九・三〇事件」にも居合わせた。二年半の駐在は濃密な時間となったが、事件の影響で帰国後は商社を退職し、米国出版社の日本支社に就職。インドネシアとの関わりはなくなった。
 三十五歳のときに兄が病死。「次は自分かも」と危機感に襲われ体調を崩した。医者に「心配し過ぎ。楽しいことをやれ」と言われ、インドネシアへの思いが再燃。新聞などで語学の勉強を続けた。
 栃木でたまたま留学生に出会った。「インドネシア語を話す機会もないし、栃木の人はインドネシアのことを知ろうともしない」。寂しげな留学生の言葉に目が覚めた。
 「インドネシアに興味持つ人と留学生を結びつける交流の場を作ろう」。栃木インドネシア友好友の会を設立。八一年、四十二歳のときだった。友の会は今年で三十年を迎えた。県内外からインドネシア好きが集まるようになった。
 通訳としての活動も開始。友の会を通じて人脈が広がり、翻訳や研修生指導の仕事も舞い込んできた。
 毎年二、三回はインドネシアの友人を訪れる。「そのときどきに貴重な出会いに恵まれてきた」。上野さんのトゥマングン県訪問に合わせ、太田市の元研修生たちが同窓会を開いた。バンドンなど各地から集まったのは十人以上。十数年ぶりに昔話に花を咲かせた。
 グローバル化が進む時代。両国の人々に「摩擦を恐れず、相手の国の言葉で自分の意見を堂々と主張できるようになることが真の交流につながる」とアドバイスしている。

◇上野勝二郎さん
 1939年埼玉県東松山生まれ、栃木県宇都宮在住。上野通商代表。翻訳、通訳業のほか、夕刊紙スアラ・プンバルアン、週刊誌テンポ、ガトラの日本での販売代理業も行う。

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