【トヨタ特集】 工業化の歩みとともに トヨタ インドネシア事業が40周年 

 トヨタ自動車のインドネシア事業が、一九七一年の合弁会社設立から今年で四十年を迎えた。三十四年前の七七年には、インドネシア向けに開発したキジャン(現キジャン・イノーバ)の生産を開始し、「国民車」としてインドネシアの市民に親しまれるまでになるなど、インドネシアの工業化の歩みと軌を一にしてきたトヨタ。現在は国内でトップとなる三七%の販売シェアを誇り、従業員は五千人以上、部品供給会社は一次サプライヤーだけでも九十社(二〇一〇年末時点)に上り、イノーバはアジアや中近東など九カ国に輸出、インドネシアの経済発展にも大きな役割を担っている。昨年の国内販売は十五万四千台で、トヨタの世界販売では米国、日本、中国、タイに次ぐ第五位。今年九月には新工場の建設を発表し、二〇一三年には年産十八万台体制になるなど、今後も積極的に事業拡大を図っていく方針だ。

 一九七一年、アストラ・インターナショナル社をパートナーとする現地法人の輸入販売会社トヨタ・アストラ・モーター(TAM)社が四月十二日に会社登記を行い、同年十二月十五日に商業省から設立許可証が交付され、営業を開始した。
 スカルノ初代大統領からの政権移譲のきっかけとなった六五年のクーデター未遂事件の「九・三〇事件」を経て、経済重視路線に舵を切ったスハルト政権下で、一九六七年に外資法が施行された。トヨタは翌六八年にはトヨタ自販ジャカルタ駐在員事務所を設置し、現法設立準備を進めてきた。七〇年にはガヤ・モーター社を組立会社として、ノックダウン方式(CKD)の輸入を開始した。
 当初から現法設立準備に関わり、九〇年代末から二〇〇〇年代にかけてTAM社副社長を務めた野村幹雄氏が日本自動車工業会(JAMA)の月刊誌(二〇〇二年一月号)に語ったところによると、戦前から政府関係車両のアフターサービスのために、トヨタの社員が数十人インドネシアに駐在していたのも、トヨタがインドネシアに早期進出できた一つのきっかけという。
 組立を開始した七二年の生産台数は、カローラ、コロナ・マーク2、クラウンなど千七十台。七三年には車両組立会社のマルチ・アストラ(MA)社、七六年にはボディ製造会社のトヨタ・モビリンド(MBD)社を相次いで設立し、七七年には初代キジャンの生産を開始した。八二年にはエンジン製造会社のトヨタ・エンジン・インドネシア(TEI)社を設立し、キジャン用K型エンジンを生産した。
 八九年には四社を統合。九七―九八年のアジア通貨危機、スハルト政権崩壊を経て、二〇〇三年に製販事業を分離した。現在は、トヨタが九五%、アストラが五%を出資する製造のトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・インドネシア(TMMIN)社、トヨタが四九%、アストラが五一%出資の販売会社TAM社が事業を展開する。
 TMMIN社の生産車種は、キジャン・イノーバとフォーチュナー。グループ会社を合わせると、トヨタ・ブランドとして現地生産されるのはアバンザ、ラッシュ、ダイナの計五車種となる。販売ではミニセダンのヴィオスから高級車のレクサス・ブランドまで含めると二十車種近くを数えるまでになった。
 国内販売シェアは八七年にトップを獲得して以来、九六年を除き、一位を維持。二〇〇五年以降はシェア三〇%台で推移し、不動の地位を確保している。

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