【ジョコウィ物語】(21) いばらの道抜ける 大統領選、僅差で制す

 2013年9月の闘争民主党(PDIP)党大会でジョコウィの大統領選出馬はがぜん現実味を帯びた。党首メガワティの意向で、彼女の父、初代大統領のスカルノが著した詩「人生を捧げ」をジョコウィが朗読し、メガワティはこう付け加えた。「世代交代は続く」
 10年野党は資金に乏しく、スカルノブランドに頼りきり。議席を減らしているにもかかわらず、大統領選で2連敗したメガワティは、長女プアンに玉座を譲ろうとした。彗星ジョコウィは、党の新しい希望だった。
 「アッラーの御名において、私はその命に服する準備ができている」。ジョコウィはPDIPから党の大統領候補の委任を受けたのは14年3月14日。総選挙の選挙運動期間直前だった。
 党は「ジョコウィ効果」を当て込み、地方支部の数字を基に得票27%とみて、7月の大統領選も大勝シナリオを書いた。
 しかし、上げ潮ムードの裏側で、確実に歯車は狂っていた。プアンは「あわよくば」を考え始め、自分を選挙戦の主役に置きジョコウィを遠ざけた。ジョコウィは党外に自身の選対をつくり党中枢が分裂した。
 他党はジョコウィを争点から外すべく口撃する。選挙戦終盤に注目が集まったイシュー「ジョコウィ・イエス、PDIP・ノー」は多様な民族、宗教を、ジョコウィ軸にまとめることの難しさを示した。
 総選挙の結果、PDIPの得票は18.95%と伸び悩んだ。小党10党が団子状になりゲームは振り出しだ。ジョコウィは「選挙戦の宣伝展開がないも同然だった」とプアンを批判。一部の週刊誌・新聞もプアンバッシングで追った。もみ合いを経て、ジョコウィは大統領選のかじ取りをメガワティから「一任」された。
■対照的な候補2人
 大統領選はジョコウィと対照的な元陸軍戦略予備軍司令官、プラボウォ・スビアントとの一騎打ちになった。プラボウォは第2代大統領スハルトの側近、経済学者スミトロの長男。スハルトの次女ティティックと結婚し、陸軍でスハルトから直接の指令を受け単独行動する将校として、異例の出世を遂げた。98年に軍内司法機関が認定した民主化活動家の拉致で失脚したが、海外生活を経て08年のスハルトの死後、グリンドラ党をつくった。ジョコウィブームの前は次期大統領に一番近い位置まで巻き返していた。
 プラボウォは政党大連合を組んだ。民放テレビ5局が勇壮な「アジアのトラ」の力強いイメージをつくり、自身に有利な世論調査を放映し、「追い上げムード」を醸成。水面下では米国人コンサルタントが考案した、ジョコウィを「華人、非ムスリム」とそしる戦術に持てる力を投入した。 
 効果はてきめん。中傷タブロイドが大票田を握るイスラム指導者に配られ、SMS、ソーシャルで個人単位まで情報が拡散された。終盤戦になると政策論争の裏側で、双方の民族、人種、宗教をめぐる中傷があからさまになり、国はまさしく二分された。
 ジョコウィは防戦に追われた。テレビ討論で「パレスチナの国連加盟を支持する」と話し、動画サイトで自身の礼拝を公開。投票日前にメッカを小巡礼した。
 終盤戦、情報戦を制したプラボウォに対し、ボランティアの個別訪問にかけた。最終日にはブンカルノ競技場でボランティアによる大規模な野外コンサートを開催、個人を対象に「庶民の中から出てきた政治家」を印象づけようとした。
 選挙戦は6ポイントの僅差で幕を閉じた。ジョコウィは勝利宣言で国民の「再統合」を呼び掛けた。「この数カ月間、政治上の違いが、われわれを分け隔てる理由をつくった。今こそともに動くときだ」。
 勝利宣言は船の上だった。「世界の海洋の極として繁栄する」。海洋国家構想が動き始めた。(敬称略、吉田拓史、おわり)

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