【日本とASEAN5年50年500年 ㊥】 日本語になった東南アジア

 日本と東南アジアの関わりは、東南アジア諸国連合(ASEAN)結成から、もっとずっと遡る。古くは、琉球王国が中国の明王朝の朝貢貿易制度を活用し、原産の宮古馬や硫黄に加え、日本本土の物資を東南アジアで販売し、東南アジアの物資を明にもたらすことで莫大な利益を上げていた。
 こうした東南アジア貿易を当時の沖縄の言い方で「からふぁ旅」と呼ぶ。「からふぁ」とはカラパ、今日のジャカルタ港にあるスンダ・クラパ波止場のことだといわれている。沖縄県立博物館には、当時東南アジアから持ち帰られた陶磁器が展示されている。
 中国は「海のシルクロード」という詩的な表現を好むが、船荷に適しているのはむしろ重量がかさむ陶磁器で、ファタヒラ広場の絵画・陶磁器博物館では「セラミックロード」と表現している。ジャワ名物の豆腐炒め「タフ・チャンプール」は、削り節がかかっていないこと以外は、沖縄の豆腐チャンプルーと見まがうほどで、沖縄との長いえにしを感じさせる。
 沖縄といえば、各国のASEAN代表部大使は、立場上バティックではなくスーツが標準だが、稀にバティックイベントがあると、私はバティックとよく似た沖縄の正装、かりゆしを着ていく。
 太平洋で一時期隆盛を極めた朝貢貿易体制は、やがて廃れていく。一つには、インド洋貿易の主流だった欧州のスパイス貿易商が太平洋に進出し、約500年前の1511年、マラッカ海峡の要衝ムラカ(現マレーシア・マラッカ)をポルトガルが占領したことで、海上覇権が激変した。
 これによってインド洋と太平洋が交易ルートとしてつながった。石見銀山が生産力を飛躍的に高め、物々交換が基本だった朝貢貿易に代えて銀による決済を可能にしたのも同じ頃だ。そして薩摩藩をはじめとする本土勢が銀を手に東南アジア貿易に本格参入し、朱印状貿易の確立、東南アジア各地での日本町建設へと時代が大きく変わっていく。今もベトナムのホイアンには「日本橋」と呼ばれる橋が残っており、タイのアユタヤにも記念碑が建っている。
 ジャカルタから渡ってきたジャガイモや、カンボジアから伝わったカボチャが日本にもたらされたのもこの時代だ。この他にも、今のタイにあたるシャム王国から来たシャモ、ベトナム中部のチャンパ王国から来たチャボなど東南アジアの地名を背負ったものがある。
 農産物以外でも、伝統的なパイプであるキセルの真ん中の部分の管は、ラオスの竹を使用したことから羅宇(らお)と呼ばれ、南中国からフィリピンのルソン島を経て日本の茶人の好むところとなった黒褐釉の壺は、呂宋(るそん)壺と呼ばれている。
 地名以外では、和服に使う赤黒い染料の蘇芳(すおう)は、マレー半島原産の木で琉球を経て輸入されたサパン、茶道に使う漆の器キンマは、元々その器に入れられていたビンロウの実を指すミャンマー語のコンヤが語源だとする説が有力だ。
 「海のシルクロード」が、中国が東南アジアに持ち込んだものに焦点を当て、また明の宦官・鄭和の大艦隊による朝貢要求のための遠征を前面に押し出しているのに対し、日本は地味ながら、500年にわたって、東南アジアから多くのものを受け入れ、今も大切に受け継いでいる。(ASEAN日本政府代表部大使 千葉明)
 ※連載「日本とASEAN」は、千葉明大使の個人的見解に基づく寄稿で、木曜日紙面に掲載します。

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