【続・香料諸島の旅(歴史編)】(25) 良い時代が続いた 17世紀のバンダ諸島
17世紀のバンダは、オランダ東インド会社(VOC)、農園主、奴隷、そして新しく生まれた混血児たちにとって良い時代であった。1633~38年の間、バンダに住みVOCに兵士として仕えた後、商人、ジャーナリストの経験を持っていたあるドイツ人の記録によると、1638年のバンダ諸島の人口は3842人だった。その内訳は、VOC職員351人、農園主を含むヨーロッパ人男性91人、ヨーロッパ人女性20人、ヨーロッパ人もしくは混血の子ども77人、土地のバンダ人560人、その他(中国人を含む)2743人である。
消費物資はバタビアから輸入した。主に米、塩、肉、ベーコン、食用油、酢およびワインである。東のカイ島とアル島からの輸入品としてサゴヤシ、ココナツ、魚、オウムそして奴隷がある。香料以外の商品の取引は、主に自由市民(Vrijburghers)が担っていたが、VOCも参入していた。
VOCの総督クーンがバンダに来訪してからの1世紀の間、彼の夢は実現したかに見えた。多くの嘆かわしい異常な出来事にもかかわらず、バンダのナツメグはオランダに大きな富をもたらしていたのだ。クーンはこの地を再び訪れることはなかった。1629年にバタビアで赤痢(あるいはコレラ)で亡くなった。42歳であった。一部の歴史家は彼は暗殺されたのではないかとしている。彼を敬愛する人も多かったが、逆に彼を嫌う敵も同様に多かったから、あり得ないことでもなかった。
VOC側から見れば、農園主と奴隷は元々バンダ人が担っていたナツメグ農園に改善を加えることはなかった。奴隷は怠け者が多く、その主人たちは破産状態にある者が多かった。VOCはナッサウ、ベルギカ、レベンジ、ホランディア他多くの要塞(ようさい)を維持・管理しておく必要があった。
そこに多くの人員を配し、資金をつぎ込んだが、それは単にイギリスの再来を防ぐというだけではなかった。奴隷が反乱を起こす危険に備えるためでもあった。一方では農園主のみならず、奴隷も香料や他の商品の闇取引を行い、奴隷が豊かになり移動も自由にできるような身分に成りあがることも可能であった。
VOCの承諾を得て、あるいは時には承諾なしに、農園主たちはアル島や他の東方の島々に事業を拡げて行った。彼らは奴隷の優秀な者を、これらのバンダ島外の仕事につかせた。そのうち自由な身になっていった奴隷もでてきた。バンダにしばしばやってくる外からの商人と時に協力し、時に競合しながら農園主と奴隷達はナツメグとメースを密輸出し、米や繊維製品を密輸入していた。他にも真珠、白檀、べっ甲、ナマコ、ふかヒレ、ツバメの巣、黒檀、鳥の羽毛も扱った。
農園主たちは次第に、ナツメグ農園で熱心に働くというよりも投機的な貿易事業に力を入れ、ネイラの町で怠惰でぜいたくな生活を楽しむことを優先するようになっていた。VOCが補助金を出している奴隷への生活必需品の米・衣服を高値で転売したりしていたので、奴隷たちは米ではなく、安いサゴヤシで我慢せざるを得なかった。
農園主は、投機的な事業がうまくいかず資金に困った時には、中国人やアラブ人からとても返済できないほどの高利で金を借り、農園を担保に入れた。
農園は賃貸物件であったので、貸手側は担保権を行使することはできず、貸金の全額回収は期待していなかったが、VOCから農園をだまし取るための策略を続けた。(「インドネシア香料諸島(続)バンダ諸島」=宮崎衛夫著=より)