英を排除、丁子根絶も 支配権強めるオランダ

■アンボン事件
 マルク諸島でのイギリスの衰退は、1623年のアンボン事件により致命的となった。オランダの司令官が、イギリス人17人と日本人傭兵9人(平戸出身の七蔵含め全員九州出身)をオランダの城塞(ビクトリア要塞)を奪取しようと企てているとの疑いで拷問により白状させ、イギリス人10人と日本人9人、ポルトガル人1人を斬首してイギリス勢力を排除した事件である。
 事件当時、オランダ東インド会社(VOC)の総督であったヤン・ピーテルゾーン・クーンはオランダの東インドでの貿易独占を主張し、政府の対応を弱腰と非難していた。このため事件は、クーンの仕組んだ陰謀であるとの説もあり、今ではこの説は有力視されているようだ。なお、この事件はイギリス国内の世論を刺激して後の英蘭戦争の一因ともなった。
 アンボン事件をきっかけに、東南アジアにおけるイギリスの影響力は弱まり、オランダが支配権を強めた。しかし需要の低下もあって、かつて同量の金と交換されたほどの香料の価格は次第に下落していった。それに伴いオランダの世界的地位も下がり始めた。
 一方、新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増大させていった。なお、クーンは、ナツメグと丁子の独占体制を確立してから5年後、一度オランダに帰国。1627年にはバタビア総督として戻り、42歳でコレラ(あるいはマラリアとも言われる)にかかり亡くなるまでバタビアに留まっていた。

■生産調整も
 一方、スペイン軍に捕えられ、マニラに追放されていたテルナテ王国のスルタン・サイドは、マニラで死去。その孫のマンダルシャがスルタンとなった。彼は1652年にバタビア城に招かれ、臣下の住民たちにとっては破滅的とも言えるような契約に署名してしまった。
 それは、スルタンが不当に支配しているアンボンおよびセラム島周辺の島々から彼の臣民を引き上げさせ、原産地であるテルナテ、ティドレを含む5島の丁子の木を切り倒してしまうというものであった。オランダによる丁子根絶政策である。
 1652年のこの悪名高い契約により、これらの島々での丁子の木の破壊を招き、テルナテ、ティドレの人々は貧困状態に陥っていく。アンボンとその周辺のハルク島、セパルア島、ヌサラウト島が、オランダが丁子の栽培を認める唯一の場所となった。
 これらの島々は年間で、50万本の木から200万キロの丁子を生産することができた。東インド会社は、アンボンでの買値の25倍の価格でアムステルダムで販売し、大きな利益を上げた。供給過多の時には生産調整もした。1677年に丁子の香りがアムステルダムの町中を包んだが、これは供給過剰を調整するため、大量に焼き払ったからである。
 この根絶政策に対抗して、テルナテでアフォという名の地元の男が山に隠れて丁子の苗木を守り、その子孫の木が「アフォの木」と呼ばれて今でも残っているというのは、特筆に値する。ただし、アフォの言われについては、他の説もあるらしいことを付け加えておきたい。また、フランス人で丁子やナツメグの東アフリカへの移植に成功した人物が居たことについては、後述する。
(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)
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 「歴史編」では、香料取引に関する古代の歴史、大航海時代、ヨーロッパ勢に振り回されたマルク諸島の2大スルタン王国(テルナテ、ティドレ)、それにオランダの植民地支配の背景などを追う。

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