地歩固めるオランダ ポルトガルに勝利

 オランダ東インド会社(VOC)は、商取引の独占権を与えられただけでなく、条約締結、港の建設、知事の任命、法の施行、さらに戦争行為までも可能となった。軍隊を持ち、貨幣の鋳造さえした。VOCの権限を行使できる地域は、「喜望峰の東、マゼラン海峡の西」という広大なものであった。VOCはオランダ本国では特許会社にすぎないが、ひとたび喜望峰を回れば国家に等しい権力を持つことになる。オランダは1609年には日本の平戸(1641年に長崎に移転)とタイのアユタヤに商館を設立し、1624年から61年にかけて台湾を統治している。
 中世のヨーロッパの航海者たちの戦闘的な行動から「海賊と軍隊と商業は三位一体」と言われこともあるが、VOCやイギリス東インド会社は、この流れをくむ組織であった。オランダの最初の狙いは、マルク諸島に残存しているポルトガルの要塞だった。1605年には、12隻の重装備のオランダの軍艦が、ポルトガルの香料貿易独占体制を切り崩すためアンボンに現れ、ヒトゥのイスラム教徒と共謀して、ポルトガルの要塞への激しい攻撃を仕掛けた。アンボンとテルナテでの凄惨(せいさん)な戦闘は、オランダの勝利に終わった。
 VOCの初代総督ピーテル・ボートが、ポルトガルから奪ったアンボンのビクトリア要塞を1609年にVOCの拠点とした。ポルトガルは両島の砦(とりで)を失い、オランダはそこで育っている丁子を大量に手に入れる独占権を獲得したのだった。こうしてオランダの出現により、アジアにおけるポルトガル帝国の衰退が始まった。一方、オランダはテルナテのスルタンと新しく同盟関係を樹立し、この地域での地歩を着々と固めていくのである。
 一方、イギリス東インド会社は、バンテンでこしょうの取引に参入し、1605年にはアンボンに船団を派遣している。そこから北のテルナテに向かう船や、ナツメグ取引のために南東のバンダ諸島に向かう船も派遣している。アンボンとテルナテでのオランダの勝利により、香料取引を独占したいというイギリス人のフランシス・ドレーク(1543ごろ~96年、海賊、海軍提督)が抱いていたこの地域でのイギリスの野望の実現の可能性は、なくなっていった。
 なお、ドレークはマゼランに次いで史上2番目の世界一周を達成し、マルク諸島にも行っている。1580年にドレークがテルナテでもてなされた時、彼が丁子に興味を示さなかったことにスルタンが驚いたが、それは彼の船が南米スペインから奪い取った金で満杯で、丁子を積む余地がなかったからであるという逸話が残っている。この逸話はドレークの掠奪行為を皮肉ったものであろうか。実際は相当量の丁子を積んで帰ったようである。

■スペインの攻撃
 マニラに駐在するスペイン軍が本国の資金支援を得て、オランダの計画を妨害しようと再びマルク諸島にやってくる。1606年3月マニラを発ち、ティドレに拠点を設置。ティドレのスルタン・サイドはスペイン軍にコラ・コラ船団を提供し、テルナテへの攻撃を応援する。スペイン軍は島の西側に位置するガマラマ要塞を襲い、テルナテ人と要塞を守るために残っていたオランダ人を圧倒し勝利を収める。ところがその後、スルタン・サイドは自分の身の危険を感じる事態になり、ハルマヘラ本島のジャイロロへ逃げたが、スペイン軍に捕えられマニラに追放された。スペインにとっては輝かしい勝利であったが、テルナテ王国にとっては、島をポルトガルから取り戻した1575年後の豊かで強力な国として栄えた30年間の終わりを告げる出来事であった。(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)
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 「歴史編」では、香料取引に関する古代の歴史、大航海時代、ヨーロッパ勢に振り回されたマルク諸島の2大スルタン王国(テルナテ、ティドレ)、それにオランダの植民地支配の背景などを追う。

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