【日本から帰って】「我慢」強いられ深夜の逃亡 元実習生ファリドさん 熊本から千葉、愛知へ

 「まだ帰りたくない。悪いのは会社なんだ」。2007年7月、熊本県下益城郡。技能実習生だったファリド・ワッズディさん(38、北スマトラ州トゥビン・ティンギ市出身)は深夜の住宅地で静かに自転車を漕ぎ出した。約1時間かけて熊本駅に向かう。実習先からの逃走だ。会社でもめ、強制帰国を言い渡された日のことだった。
 監理団体アイムジャパンの研修を経て、06年に同郡の土木工事業の会社で研修を始めた。約10人のインドネシア人とともに、日本人社員の補助作業を行う「手元」として、機械を使った整地作業やコンクリートブロックの運搬など、肉体労働に従事した。
 「日本で働くのが夢だった。父親がイナルム(国営資源アサハン・アルミニウム)と日本企業のダム建設で作業員として働いていて、小さいころによく『日本はすごい』と聞かされていた」
 だが日本人社員は肉体労働ばかりをインドネシア人に任せ、「召使い」のように扱った。残業続きだったが、手当は支払われなかった。監理団体に相談しても、「我慢してね」と言われるだけ。会社に抗議すると、「なんだお前、黙れ」と社員から怒声を浴びせられた。
 鬱憤(うっぷん)がたまり、4月ごろに共に働いていた「社長の息子」とつかみ合いのけんかをした。その3カ月後、報告を受けた監理団体の職員2人が昼間にアパートにやってきて、ファリドさんに強制帰国を告げた。
 「会社が悪いのに、なぜ自分だけが罰を受けなくてはいけないのか」。そんな思いが湧き上がった。
 実習先を逃げ出す実習生が多くいることは聞いていた。自分も逃走先を探すため、日本に滞在するインドネシア人たちに電話をかけてみると、千葉県の養鶏場を紹介された。夜のうちに荷物をまとめ、アパートから逃げた。
 自転車は同僚のインドネシア人が貸してくれた。千葉までの交通費もカンパしてもらった。「皆会社に不満を感じていたが、強制送還が怖くて抗議できないでいた」
 熊本駅で始発に乗り、乗り継いで千葉へ。養鶏場は成田空港周辺にあった。卵をパックに詰める仕事で、時給は800円。同じように実習先を逃げ出してきたインドネシア人が5人おり、日本人経営者も事情を把握した上で受け入れてくれた。
 その3カ月後、「もっと稼げる仕事がある」と、知り合いのインドネシア人から愛知県安城市でのマンホール蓋製造工場を紹介され、転職した。時給は千円。同じく不法滞在するインドネシア人のアパートに転がり込んだ。失踪した実習生が働く場所は想像以上に多く、日本人も承知の上で雇用していた。
 「不法滞在で捕まったやつがいる。お前も気をつけろ」。月に1~2度ほど、インドネシア人の知人たちからこんな連絡が回ってきた。自宅にも警察が踏み込んでくるのではないかと不安になり、連絡を受けた日は同居人と車の中で眠った。
 09年、そんな生活にも慣れてきたころ、不況のあおりを受け、工場を解雇された。他に仕事のあてもなく、インドネシアに戻るしかなかった。
 帰国後は元技能実習生が経営するリアウ州の会社や、西ジャワ州ブカシ県ジャバベカ工業団地の日系企業などを転々とした。16年、日本人女性と結婚したという技能実習生の後輩から仕事の紹介を受け、再び安城へ渡ることになった。
 だが、用意されていたのは難民申請者としての違法就労だった。自動車部品工場で朝から晩まで働いた。シャツを絞れば大量の汗がしたたり落ちた。しかし給料は後輩に中抜きされ、手元に残るのはわずかだった。
 後輩と給料の取り分で折り合わず、1年9カ月で帰国した。現在は北スマトラ州メダン市で、13年に結婚した妻と息子3人と暮らす。飲料水を販売して生計を立てている。「オーバーステイ、違法就労で、正式に日本で働ける道をなくしてしまった」。日本政府が外国人労働者受け入れに舵を切り出した現在、そんな思いが胸に残る。 (大野航太郎、写真も)

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