初めての日本語新聞 爪哇(じゃわ)日報 (上)

 99年前の1920年(大正11年)10月31日、当時バタビアと呼ばれていたジャカルタで、初めての日本語新聞「爪哇(じゃわ)日報」が産声をあげた。創刊したのは佃光治(つくだ・みつはる)で、初代主筆には文芸家の加藤朝鳥(かとう・あさどり)が日本から招かれた。記者には後にスラバヤ支局を任される松原晩香(まつばら・ばんこう)がいた。
 1920年末のオランダ領東インドに在留した日本人は男性2141人、女性1418人の計3559人だった。「爪哇日報」はこれらの人々に情報と娯楽を与えたほとんど唯一の日本語媒体であった。そして今では、日本とインドネシアの関係・交流の歴史を知るために必要不可欠な一級資料となっている。しかし、日本国内で「爪哇日報」全号を所蔵している図書館はなく、インドネシア国立図書館の旧館(サレンバン)にしかない。とはいえ、紙の劣化によりその保存状態は極めて悪く、創刊号は元の形態をとどめていないほどボロボロの状態だ。
 創業者の佃は1914年2月にシンガポールに渡来し、シンガポールの日刊紙「南洋新報」や「南洋日日新聞」の主筆を経て、1916年8月に雑誌「南洋及日本人」を創刊した。
毎年一つは新しい成果品を出すことを心掛けていたという佃は、ブームに沸いたマレー半島における日本人ゴム園経営者の状況などを紹介した写真集「馬来に於ける邦人活動の現況」(1917年)や自身の南洋経験を綴った「南洋の五年有半」(1919年)などを刊行している。「南洋の五年有半」には、佃にとって二つのオランダ東インド見聞記となる「蘭領東印度の宝島爪哇」と「蘭領未開の大宝源スマトラ」が多数の写真と共に150頁余にわたって収められている。「宝島」、「大宝源」と、一獲千金を狙う日本の青年たちを魅了する言葉を並べ、マレー半島に続く邦人進出の地はジャワやスマトラだと説いた。
 「南洋及日本人」の拡販を狙って支局を開設してはどうかという提案もあったが、佃はこの旅行中に「爪哇日報」の創刊を決めている。
 佃の人生については、生年、出身地を含めてわからないことが多いが、インドネシアの独立に立ち会った西嶋重忠は佃について、「幸徳秋水事件の関係者で本名は田中甲之」と「インドネシア独立革命 ある日本人革命家の半生」に書いている。これが事実かは確認できないが、思想的に日本を追われ、シンガポールで「星嘉坡(しんがぽーる)日報」を創刊した伊藤友治郎や「南洋日日新聞」の主筆野村貞吉など、日本政府から「要視察人(危険人物)」に認定され、異名を使った新聞人は珍しくはない。
 筆者の手許には1920年前後、シンガポール政府が発行した佃の外国人登録証や在シンガポール日本総領事館による国籍証明証などがある。それらによれば、佃は「Mitsuharu Tsukuda」と名乗り、生まれは1883年と推測される。「爪哇日報」を創刊した時は37歳だった。痩身で、酒と女性を愛し、「(マレー)半島では凡太郎、シンガポールでは佃煮のあだ名、出っ歯、首長、呑み助、これが通り名、そして遂には助の字(好色)まで頭に冠せ」られるほどの豪放磊落な人物だった。(「南洋之現在」)
 しかし、創刊1年4か月後の1922年2月5日、無理がたたったのか佃は急逝し、今はジャカルタの日本人納骨堂で眠っている。納骨堂の骨壺に添えられた札には行年42歳と記されているが、前述の証明証などに従えば38歳で亡くなったことになる。南洋生活は短期間だったが、最期まで多彩で謎の多い人生だった。(青木澄夫)(つづく、随時掲載します)

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