難民1400人、募る不安 一時施設 「いつまで待たされる」

 西ジャカルタの難民一時避難所に難民申請者ら約1400人が寝泊まりしている。7月上旬に中央ジャカルタの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)前に集まった後、移された人らだ。いつまで施設が利用できるか分からないまま、不安や不満を募らせている。
 避難所は軍施設だった建物をジャカルタ特別州が11日に開設した。地元メディアによると、特別州は当初、1週間の支援を計画していたが、17日に支援延長を発表した。
 難民らの出身国は、アフガニスタンやソマリアなど12カ国だ。体育館ほどの敷地に2階建て2棟。難民らは屋内外にテントを張って過ごす。トイレは屋内の備え付けのほか、仮設トイレ五つ。食事は昼と夜の2回支給。午後10時以降の外出は禁止という。
 開設から約1週間、記者が現場を訪れ、アフガン男性に声を掛けた。1年8カ月前に来イしたレザさん(37)は、難民認定申請をして、第三国への入国を待っている。インドネシアを選んだ理由は「イスラム教が多数派の国だから」。アフガンのエージェントを通じ、5人家族で2万ドルを払い、出国したという。
 ボゴールの安宿に暮らし、生活費は月に300ドルだった。インドネシアでは難民は就労ができないため、持ち金を使い果たした。知人を頼り、避難所にたどり着いた。「生きるために、金を使い果たした。(第三国入国の)手続きが遅いUNHCRの責任だ」。
 レザさんと話を始めた途端、6人前後のアフガン男性が記者を取り囲み、「トイレが足りない」「子どもの食事がない」「ライトがない」「個室のシェルターがほしい」と語気を強めた。
 一人が幼い子どもを連れてきた。「これを見てくれ」と腕や額を見せる。蚊に刺された痕が数十カ所あり、「蚊がたくさんいて眠れないんだ」と訴えた。
 別の一人は、アフガンからパキスタンを経由し、インドネシアに2年前に逃れたというムハンマドさん(20)。屋内のテントで暮らす。テントを訪れると、ムハンマドさんの妻と、知人女性と、その4歳と16歳の子どもが、支給された食品を食べていた。テントの中は、むっとする暑さ。4人で座るのがやっとだ。
 ムハンマドさんは「明日、明日と出国を待ち、もう2年が過ぎた。UNHCRにカウンセリングを受けに行っても『待って』と言われるだけ。僕たちの住んでいる所に、UNHCRの人は来たこともないし、ここにも来ていない」とこぼす。

■「弟と父は殺された」
 避難所の屋外のテントは、スーダンの難民らが暮らしている。紛争が続くスーダンのダルフール出身のモハメドさん(34)は、1年6カ月前にインドネシアに来た。「ダルフールでは2003年から、武装勢力によるジェノサイド(民族大虐殺)があり、警官や兵士も殺された」と話す。
 この年、「私の17歳の弟と父は武装勢力に殺された。夜に自宅近くの屋外で、家族で談笑していたら、付近の道から銃で撃たれた。当時、100~200人が同時に殺された」。その後、国内各地で避難していたが、「武装勢力は僕たちを捜そうとしていた」。
 07年にエージェントを経由し、1300ドルを支払って出国。自宅の荷物はなくなり、着の身着のままで出国した。「エージェントを使わないと、行き先が武装集団にばれてしまう」。母親ときょうだい2人は地元に残ったまま。「お金がなくて出国できていない」
 モハメドさんは来イ後、西ジャカルタの入国管理局収容所前の路上で暮らしていた。「何も手助けがなく」、7月上旬にUNHCR前の路上に移動した。「路上から退去するように言われたが、他にどこも知らない」。
 1週間ほど前に、避難所に移った。「まだUNHCRは避難所の中に来ていない。どのくらい待つのか、助けがあるのかもわからない」と口にした。(木許はるみ、写真も)

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