【「なんみん」物語(上)】赤ちゃん連れていかないで 産後2週間、警察がアパートに

 東ジャワ州の、風の涼しい田舎町。ロフダティンさん(36)は、私に手作りのプルクデール(コロッケ)とお菓子をすすめた。赤ちゃんをあやしながら、夫のスチプトさん(31)を見やり、少しずつ口を開いた。共に「なんみん(難民申請者)」として日本で過ごした日々のことを。
 「日本に行こうと思ったのは仕事を探すため。ここで働いても10万ルピア稼げない日もある。日本だと1時間でそれ以上稼げます」。2016年8月に日本へ旅行者として入った。
 「『なんみん』の意味は知らなかったです。就労ビザの一種だと思っていました。インドネシアのブローカーに8千万ルピア支払い、日本入国後、愛知県内のインドネシア人ブローカーに20万円渡しました。どちらも親からの借金です」
 難民申請者は申請の6カ月後から就労が許可される運用が行われてきた。ロフダティンさんは17年2月になって、愛知県刈谷市で自動車の部品点検の仕事に就けた。月給約20万円、アパート代などを除くと15万円ほど残ったという。
 18年4月、1駅離れた所に住んでいたスチプトさんとフェイスブックを通じて知り合った。
 「一目ぼれした。優しい人だよ」とほほ笑むスチプトさんは、外国人技能実習生として16年2月に日本に入国した。愛知県小牧市の建設会社で働いていたが失踪、その後、難民申請をし、働いていた。
 「バンドンの職業訓練校(LPK)で6カ月学んだ。LPKには3500万ルピア払った。修了してから日本に出発するまで2年半待った。待つ間、仕事はできない。LPKから『今から出発する』と言われて、すぐ行けなかったら、日本行きのチャンスはなくなるからね。この期間の生活費を合わせ、借金は1億5千万ルピアに膨らんだ」
 「(建設)会社の月給は16万円ということになっていたが、管理組合などに計3万円取られ、社会保険、税金、年金、アパート代を引くと残りは7万。そこから家族の生活費2万円を送金した」。インドネシアで薬の販売員をしていたときは、月600万~900万ルピアの手取りがあったという。
 「会社の日本人の同僚の中には、きつい人もいた。『バカ野郎』『お前、帰れ』などと怒鳴られ、ときどきヘルメットをハンマーでたたかれた」
 嫌気が差し、17年6月に失踪した。関東で「なんみん」の話を聞き、名古屋入管に難民申請するため、愛知県に舞い戻った。「帰国すれば、借金の件で危害を加えられる恐れがある」
 二人は結婚、18年10月にロフダティンさんのアパートで暮らし始めた。ことし4月14日には男の子が生まれた。
 出産から14日後の午後、アパートを警察官が訪れた。夫婦とも在留許可期間が切れていた。「あなた」。ロフダティンさんが叫ぶ。「私の赤ちゃんを連れて行かないで」。「警察署で取り調べる。留置所に赤ちゃんを入れておくわけには、いかないだろう」。警察官が諭した。
 部屋にはロフダティンさんがスチプトさんに作ったばかりのジャワのお菓子が残された。
×    ×
 在留資格「特定技能」の導入で、外国人労働者受け入れに大きく舵を切った日本。これまでも技能実習生などの名目で「サイドドア」から労働者を呼び込んできた。人権侵害を逃れてきた人々に対する日本の難民認定の少なさが注目を浴びる一方で、インドネシア人「なんみん」たちは何を思い、体験してきたか。聞き書きでつづる。(つづく)(米元文秋、写真も)

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