管理職で活躍のケースも EPA看護師・介護士研究 筑波大院生・村雲和美さん

 来日した看護師候補者第1陣104人のうち、まだ同じ病院で働くのは6人――。日イの経済連携協定(EPA)に基づく看護師・介護福祉士候補者の受け入れ事業。同事業に携わる実務経験なども経て、研究を続ける筑波大学の博士後期課程、村雲和美さん(日本学術振興会特別研究員)がこのほどジャカルタを訪れ、これまでの調査、研究で見えてきたモデルケースや課題などについて語った。

 村雲さんは2009年から11年まで、在外公館派遣員として在デンパサール日本総領事館に勤めていた。09年はちょうど、過去最多の第2陣(計362人)がインドネシアから日本へ出発した年だった。  
 「(彼らが)日本でどのように仕事、生活をして、その後どうキャリアを築くのか調べたいと思った」
 帰国後、日本で修士課程を修了し、国際交流基金のジャカルタ日本文化センターでEPA事業調整員を経て、現在に至る。
 主に調査するのは第1陣~3陣の看護師たちだ。特に初めの1陣、2陣には苦労が多かったという。その中で、岐阜にある病院についてモデルケースではないかと話す。同病院では、第1陣として受け入れたインドネシア人女性が今でも働き続ける。女性はすでに中間管理職となっており、岐阜弁で日本人の指導も行っているという。国家試験合格後、夫を日本に呼び、日本で子どもを産んだ。ビザの切り替えなどもバックアップは全て病院側が行ったという。
 「病院は『人材』としてかなり期待をしており、きちんと育てようというのがあった。彼女は周囲や患者からも信頼され、戦力になっている。これがモデルケースなのでは」と村雲さん。
 問題ばかりが取り上げられがちだが、このような良いケースも取り上げ、外国人労働者を受け入れる今後の日本のモデルを考えていきたいという。

■方言がネックに

 「第1陣104人が来日したが、まだ日本で(彼女のように)ずっと同じ病院で働いているのは6人。9割は日本から帰っている」
 村雲さんは、帰国した第2陣の6人にジャカルタで追跡調査を行った。そこで聞いたことの一つに方言のハードルがあったという。
 「実は国家試験の日本語はルビも振ってあるし、きちんと勉強もしていて大丈夫。ただ、地方の場合、日ごろ仕事をして使用しているのは方言。例えば岐阜だと、痛いは病むと言う」
 病院での申し送りや患者とのコミュニケーションが方言で、モチベーションが保てなかったと帰国した人もいたという。

■帰国後のキャリア

 帰国した6人のうち、再び看護師になったのは2人だけだった。ほかは日系企業に就職した。現状、3年間日本の病院で働いたという正式な証明書はない。国家試験に合格できなければ、日本での経験を(文書で)証明できない。また、日本では医療業務に従事していなかったとみなされるため、インドネシアの病院で再び看護師となるには新人と同じ給料から始めなければいけないという。
 村雲さんは、日本政府から統一された正式な証明書が出れば、とその必要性を伝える。6月には、ジャカルタでアニス・バスウェダン知事と面談した際、証明書について賛同を得た。
 11月には日本でEPAの10年を振り返り、事業の改善を図る趣旨のシンポジウムを関係者たちと協力して開く。岐阜でのモデルケースなども紹介する予定だ。
 先日、第12陣が日本へ出発し、えとを一回りした同事業。日本にはEPA会などのコミュニティーができ、候補者の数は7年度連続で徐々に増えている。(上村夏美、写真も)

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