亡き家族に思いはせ 中部スラウェシ州パル 被災地でレバランの祈り
中部スラウェシ地震・津波の被災地は5日、震災後初めてのレバラン(断食月明け大祭)を迎えた。ムスリムにとってレバランは、親族や友人で集まり親睦を深める特別な日。被害が大きかったパル市では、亡くなった家族の墓を参り、祈りをささげる人々の姿があった。今も避難生活を送る被災者たちは、大切な人や家を失った喪失感を抱えながら、懸命に生きている。
液状化の壊滅的な被害を受けたパル市ペトボの広場では5日朝、レバランの集団礼拝が行われた。ヒダヤット市長や被災者ら約500人が参列し、青空の下、芝生の上で祈った。
被災者の多くは周辺の仮設住宅での生活を余儀なくされている。「震災でバラバラになってしまった人々がきょう、こうしてまた集まることができて良かった」。ペトボの仮設で暮らすヌル・ミンサニさん(47)は礼拝後、友人と抱き合い涙ぐんだ。
レバランは故人をしのぶ日でもある。信用組合で働くボウォさん(37)は、パル市ポボヤにある震災犠牲者の共同墓地を訪れ、父スカトノさん(当時66歳)の墓に花びらを撒いた。
2世帯6人で暮らしていたバラロアの自宅が液状化被害に遭い、両親を失った。ボウォさんが外出先から駆け付けた頃には、家は陥没した道路の中に埋まっていた。屋根をこじ開け、手前の部屋にいた妻子を助け出したが、奥のリビングにいた両親は助からなかった。
住んでいた場所は「危険区域」に指定され、住民は移転しなくてはならない。「もう住めない」。そう言って多くの友人が州外へ引っ越していった。
ボウォさん一家は、仮設住宅に空きがなく入れず、長くテントで暮らしてきた。日中は暑く、水浴びも満足にできない。3歳の娘や10カ月の息子がかわいそうで、4カ月前、家賃40万ルピアのコス(下宿)に引っ越した。家賃支援はなく生活を切り詰めている。
昨年のレバランは、両親を交えた家族6人がそろって食卓を囲み、将来について語り合った。建設業だったスカトノさんは誠実な人で、ボウォさんに対し「子どもたちが困らないよう、仕事はまじめにやりなさい」といつも言っていた。
8月には第3子が産まれる予定で、ボウォさんは3児の父になる。「悲しみは癒えないし、生活は厳しい。でも家族のために頑張らないと」。父の墓前で、そう歯を食いしばった。(木村綾、写真も)