【忘れ得ぬ人】(上)日イ友好関係の基礎作る 「元帥」と呼ばれた木村武雄
外交関係は国内の政治・社会情勢の延長線という表現があるが、その観点で見ると太平洋戦争以降スハルト時代までの日イの関係は、日本国内の民族派と米国派の政治グループによる影響と綱引きが交互してきたと言える。民族派は満州事変を起こした石原莞爾氏の対アジア外交方針哲学に起源を持ち、その後の田中派につながる。その中心的役割を果たした政治家として木村武雄議員(1902~83年)があげられる。一方、戦後の日米安保条約に起点を持つ親米派の国内政治グループとしては福田派の存在が大きい。
田中派は木村議員のイニシアティブにより結成された。木村議員は、日イの友好信頼関係強化に貢献し、田中派のご意見番と言われた。佐藤首相、田中首相双方に率直な意見ができる数少ない政治家で、「木村元帥」とも呼ばれた。
木村議員は戦前の政友会メンバーの生き残りである。日中戦争、太平洋戦争に反対し、当時近衛文麿、東條英樹総理に反発、非大政翼賛会より唯一国会議員に当選した。戦後はケネディー米大統領とも交友関係を持ち、アジアの平和に日本が貢献していくとの姿勢をアメリカに示し、インドネシアとの経済協力を推進した。木村の政治哲学は理想の共和国として「五族協和」の開発国家の実現をインドネシアに夢見た政治家であった。
木村議員はスハルト以降、日イのエネルギー・資源外交を指導した田中派の政治家であり、自民党内の田中派結成に大きな役割を果たした。72年の第1次田中内閣で建設相・国家公安委員長を務めた。日イ友好協力のシンボルともなった、アサハン・アルミニウム・プロジェクトを推進。日本経済の発展はインドネシアの資源・エネルギーなくしてあり得ないと語り、2国間の経済協力関係の強化に尽力、現在の強固な友好関係の基礎を創り上げた。
木村議員は1966年3月11日事件(スカルノからスハルトに実権が移譲された事件)以降、稲嶺一郎議員、元兵士の中島慎三郎氏、軍の宣伝班だった金子智一氏と共にインドネシアを訪問、スハルト将軍と会い、インドネシアの方向性、日イ2国間関係の将来に関し話し合い、スカルノ政権崩壊後迅速な行動を取って、日本とインドネシアの外交・政治面の懸け橋の先駆者となった。
■毎年若手引き連れ
その後、スハルト大統領が政権を掌握して以降、同議員は毎年独立記念日には若手政治家を引き連れてインドネシアを訪問、特に渡辺美智雄、石原慎太郎、中川一郎、玉置和郎、加藤六月、土屋義彦、浜田幸一、中尾栄一、野田毅、三塚博、小沢一郎ら当選したての1年生議員をスハルト大統領に紹介、多くの親インドネシア派の若手政治家を育成した。その後小沢議員を除く彼らは超党派でアジア国粋的な青嵐会を結成した。当時、スハルト大統領夫妻は木村議員一行をスハルト私邸に招き、一行には日本語であいさつしていたことは有名である。(濱田雄二、つづく)