バタビア制すオランダ イギリスとの交渉

 1618年にジャヤカルタの王子はオランダ東インド会社(VOC)と条約を結び、スンダ ・クラパ港とつながるチリウン川の東岸に倉庫を建てることを認めた。VOCの第4代総督となったヤン・ピーテルゾーン・クーンは倉庫群の警護のため、バタヴィア城塞を建設した。それで安全が確保されると、クーンとVOC軍は、ジャヤカルタ王子に刃向い、近辺の町を破壊し、王子と住民を追い払った。その後、VOCはチリウン川の流れを変えて、町を取り囲むように運河を造り、取扱品の搬出入を容易にした新しいバタビアの町を建設した。かくして、バタビアは、インド・スリランカから中国・日本まで広がったオランダ支配の大貿易帝国を管理、監督する都市となっていく。
 カトリックのスペイン・ポルトガルに対抗して、プロテスタントのイギリスとオランダが1619年に結んだ条約により、VOCの役員会はクーンに対しイギリスに協力するように指示を出した。その条約では、香料諸島の全ての香料の3分の2はオランダ、3分の1はイギリスの取り分であるとした。
 ところが、クーンはこのようなイギリスへのいかなる譲歩も認めなかった。クーンは、バンダ島の原住民によるオランダ人殺害への復讐として、1621年にバタビアから13隻の船と1500人の兵士とで出航し,さらにアンボンで船と兵士を補給して、バンダ島を襲撃した。1万5千人の島民は殺害されたか、奴隷にされたか、一部の者は山に逃げ込んだ。こうしてVOCはナツメグの栽培のために、オランダ人のプランテーション所有者から成る植民地を建設していったのである。
 オランダは東西3キロ、南北1キロのちっぽけなルン島を除いて、バンダ諸島のナツメグを全て支配した。ルン島はイギリス東インド会社(EIC)の最後の基地であったのだ。当時、バンダ諸島でしか育たなかったナツメグは、そこでは10 ポンド(約4・5キロ)で1ペンスもしないが、ロンドンに持ち帰れば2ポンド10シリング、実に600倍にもなった。

■マンハッタンと交換
 イギリス人のナサニエル・コートホープが、1616年にルン島に到着してから6年間オランダの攻撃から守っていた。このナツメグをめぐってバンダ諸島でイギリスとオランダは激しく争ったが、本国同士の第2次英蘭戦争(1665~67年)末に、オランダはルン島を取り、それと引き換えにアメリカ東海岸のニューアムステルダム(現在のニューヨーク)のマンハッタン島をイギリスに譲渡することになった。
 ナツメグの実るルン島の方が、毛皮の取引を行う小さな村に過ぎなかったマンハッタンより価値があると判断したのであろう。世界の商業・金融の中心地である現在のマンハッタンと、香料貿易の歴史のかなたに忘れ去られたしまったルン島を思うと、なんという交換であったのか!
 クーンは丁子を独占するため、テルナテ、ティドレの丁子の木をアンボンに植樹し、丁子の栽培をアンボンに集中することにした。アンボンではVOCが定めたままにそれぞれの家では、100本以上の丁子の木を植えることを義務付けた。オランダの独占に反対する村や、余った丁子をジャワやマカッサルの商人に売り渡す者に対しては厳しく罰したのである。(「インドネシア香料諸島」=宮崎衛夫著=より)
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 「歴史編」では、香料取引に関する古代の歴史、大航海時代、ヨーロッパ勢に振り回されたマルク諸島の2大スルタン王国(テルナテ、ティドレ)、それにオランダの植民地支配の背景などを追う。

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