「弟がタリバンに殺された」 アフガン難民アフマドさん

 アフガニスタン東部のホスト州出身のアフマド・ババカルヒールさん(24)は、17年10月に生後3カ月の娘と妻、両親やきょうだいを残し、生まれ育ったアフガニスタンを後にした。当時、ダアワ大学工学部の3年生だった。英語を子どもに教えたり、政府関係のアルバイトをしたりしているうちにアフガンの反政府武装勢力タリバンに目をつけられるようになった。タリバンは「敵である」米国の文化や言語も憎んでいた。

 市場に出かけていたとき、母親から電話があった。「おまえを捜しに、タリバンが家へやって来た。家に帰ってきては駄目。遠く、遠くまで逃げなさい」
 叔父に相談すると、その足で首都カブールの密出入国ブローカーの所へ連れていかれた。数日後、家族に直接別れを告げることもなく、インド、マレーシアを経て、着の身着のままインドネシアへたどり着いた。
 「持ち物はかばんだけ。お金は叔父が払ったのでいくらだったかは知らないが、おそらく8千ドルぐらいだと思う」
 最初の3カ月ほど、ブローカーに言われるがまま西ジャワ州ボゴールの安宿にほかの難民と共に身を寄せた。その後、西ジャカルタ区カリデレスにある出入国管理局の収容所へ行き、保護されるのを待つよう指示されたという。
 収容所前で路上生活をしているとき、祖国に残した母親が泣きながら電話してきた。2歳下の弟が、自分の身代わりに「タリバンにさらわれ、殺された」。静かに話すアフマドさん。目は赤くなっていた。
 「時々、政府の仕事をするんじゃなかった、英語を教えるんじゃなかった、インドネシアに来るんじゃなかったと、自分を責めることがある」と言葉を絞り出す。
 アフマドさんには、4歳下の弟と4人の妹もいる。「子どものころは別だが、アフガンでは(大都市を除き)女性は病院に行くとき以外、外出しない。危険だから家族が外出を許さない。だから自分が妹に英語などを家で教えていた。殺された弟はあまり勉強が好きじゃなかったみたいで、父親の農業の手伝いをしていた。もう1人の弟もいる。彼の身の安全が心配だ」
 約1カ月の路上生活の後、2月に収容所内に入り、6月に国際移住機関(IOM)が手配した西ジャカルタ・コタの安宿に移り、現在はボゴールに住む。第三国定住はいつになるのか、誰にも分からない。インドネシアでは勉強も、仕事もできず、ただ待つだけの生活を送る。
 「同級生はことし大学を卒業する。とてもうらやましい。勉強が好きだし、働きたい。家族に会いたい。インドネシアではそれが許されない。第三国へ行くしか方法はない。それだけが望みだ」
 第三国定住は5年、6年後かもしれない。娘は自分のことを分かってくれるだろうか、家族とはいつ会えるのか。自分の将来は——。考え過ぎて「10キロくらいやせた」。
 「もうやせたくないのだけれど、自分じゃどうしようもない」と力なく笑った。(つづく)(坂田優菜、写真も)

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