アジア大会の記憶刻む HI開業56周年

 1962年の第4回アジア大会に合わせてオープンしたホテル・インドネシア。日本の戦後賠償でインドネシア各地に建てられたホテル4軒のうち最初に完成し、スナヤンのブンカルノ競技場、スマンギ高架道路と並ぶスカルノ初代大統領肝いりの国家事業だった。8月5日に開業56年を迎え、アジア大会に向け元メダリストのイベントや写真展など記念行事が相次ぐ。回顧録を近く出版する同ホテルの初代インドネシア人広報担当者、アリフィン・パサリブ氏(78)に当時の様子を聞いた。

 「ホテル・インドネシアの建設地は、平屋のカンプン(下町)に囲まれた沼地だった。歓迎の塔ができたばかりで、タムリン通りは車も少なく閑散としていた。モナス(独立記念塔)もサリナデパートもまだなかった」
 当時歓迎の塔の前にあったイギリス大使館に勤務していたアリフィン氏は、「ジャカルタは大きなカンプンにすぎなかった」と振り返る。オランダ統治時代の高級ホテルは、イスタナ(大統領宮殿)西脇にあったホテル・デス・インデスのみ。50年代、スカルノ大統領が渡米中に立ち寄ったプエルトリコの高級ホテルを気に入り、米国人建築家にデザインを依頼。日本の戦後賠償事業として建設が決まった。
 「事業決定の経緯は、スカルノ氏とともに最終調整にあたったマルゴノ・ジョヨハディクスモ氏から聞いた。インドネシアも世界に通用するレベルのホテルを持つべきだ、との結論に達したと話していた」
 マルゴノ氏は国営銀行バンク・ヌガラ・インドネシア(BNI)創立者で、息子はスハルト政権の経済ブレーンのスミトロ氏、孫はグリンドラ党党首のプラボウォ氏。90年代にはホテル・インドネシア近くに高層ビル「ウィスマ・BNI46」が建てられ、マルゴノ氏の名前はその前の通りの名称にもなっている。
 24日のアジア大会開幕を目前に控えた62年8月5日。ホテル・インドネシアが開業した。「大使館職員として式典に出席したが、外国人ばかりで別世界。豪華な建物には本当に驚いた」。当時、フィリピンのメディアから「高級ホテルは身分不相応」と批判されたが、インドネシア国民はスカルノ氏の指導力を高く評価していたという。外国の要人が次々と利用し、63年9月には池田勇人首相が訪れ、スカルノ氏と晩さん会を開いている。
 アリフィン氏は64年、流ちょうな英語を買われ、それまで米国人が務めていた広報担当に就任した。宿泊客は米国人や日本人が圧倒的に多く、日本航空(JAL)の窓口も開設。デヴィ・スカルノ夫人とラウンジで会うこともあったという。
 90年代に入り、周辺には次々と高級ホテルが建てられるようになったが、ジャカルタのアイコンとしての地位は揺るがなかった。ホテルは93年に文化財に指定され、2009年には5年間に及ぶ改修を終え、ホテル・インドネシア・ケンピンスキーとして再出発した。外見は建設当時の形を変えず外壁の薄緑色なども維持。内装は全面的に変わったが、ロビーや中庭などあちこちにスカルノ氏ゆかりの絵画や彫刻のコレクションが置かれている。要人用の「インドネシア初のエレベーター」も当時のままだ。
 ことし就任したゼネラルマネジャーのシャフケ・ヤンセン氏は、アジア大会を契機に「ゆかりのあるホテルを通じて、あらためてインドネシアの歴史に触れてほしい」と話す。
 2日には、ジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)大統領とアニス・バスウェダン・ジャカルタ特別州知事が、ホテル前の歩道を歩いて目抜き通りを視察した。ヤンセン氏は「歩道橋も撤去されるなど周辺は大幅に整備された。ぜひ散策してみてほしい」と話している。(蓜島克彦)

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