【アジアを駆けた半世紀 草野靖夫氏を偲ぶ(9)】 気仙沼経由で天国へ 小松邦康

  草野さんとはジャカルタで二十年ほど前に知り合いました。じゃかるた新聞には私が書いた記事をたくさん載せて頂き、中には本になったものもあります。それらが読者の目に触れ、多くの人とつながることで、私のインドネシア暮らしが続いています。
 七年前に起きたスマトラ沖大津波の直後、私は最大の被災地アチェに入り人生観が変わるほどの衝撃を受けました。その後もアチェを何度も訪れています。そして昨年三月、東日本大震災が起きました。自分の国で起きた地震や津波や原発事故が気になり、五月に福島、宮城、岩手などの被災地に行きました。
 福島県いわき市で育ち、毎日新聞記者時代の初任地が仙台だった草野さんは東北の被災地のことをとても気にしていました。
 「震災後、女房の墓があるいわきにしか行っていない。四国出身の小松さんがジャカルタから東北各地を回ったのに、僕が行かないのはおかしい」。草野さんはじゃかるた新聞の記者と私に向かって、大きな声でそう言いました。
 六月、ユドヨノ大統領夫妻が宮城県気仙沼市を訪問することになりました。気仙沼では震災前、多くのインドネシア人の漁船員や水産関係者が働き、主要産業の漁業を支えていたからです。
 東京で入院し癌の治療を受けていた草野さんは、その知らせを聞き気仙沼に向かいました。津波で大きな漁船が何隻も打ち上げられ、がれきと焼け跡が果てしなく広がり、ほこりが舞い、悪臭が漂い、交通が麻痺し、ホテルは満室、食堂も少ない気仙沼です。草野さんは一人で被災現場に立ち、総勢百人の大統領訪問団を追いかけました。
 「病室に戻ってきた父は体調が万全じゃないから集中できないと言いながら、鬼のような形相で原稿を仕上げました」と、長女の中橋美樹さんは私に話をしてくれました。
 六月二十日のじゃかるた新聞に載ったその記事は、日本とインドネシアとの交流を深めた草野さんの人生の集大成でした。「これが最後になるかも知れないから、よく読んでよ」と言って、美樹さんに病室に届いた紙面を差し出したそうです。
 そのあと草野さんの病状は悪化し、もうジャカルタには戻って来ませんでした。
 「震災からの復興がインドネシアにできて、日本にできないはずはない」。草野さんは亡くなるまで病床でそう言っていたそうです。(著書に「インドネシアの紛争地を行く」、「インドネシア検定」(共著)など。じゃかるた新聞に旅行記など寄稿。)

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