長田周子さん、来月100歳に 夫の独立運動支え 在留邦人初、安倍首相から長寿お祝い
在留邦人最高齢で南ジャカルタ・チプテ在住の長田周子さん(インドネシア名=シティ・アミナ・マジッド・ウスマン)が来月4日、100歳を迎える。15日の老人の日には、在留邦人では初めて、安倍晋三首相からお祝い状と記念品が贈られた。78年前に初めて来イした長田さんは「大事なことは何をしたら人のためになるか、考えること」と話した。インドネシア独立運動に携わった、夫のウスマン氏を支えながら4人の子どもを育て上げた。
長田さんは1914年(大正3年)10月4日山梨県甲府市生まれ。日本女子大在学中に当時明治大学留学中のインドネシア人、アブドゥル・マジッド・ウスマン氏と社会福祉活動を通じて知り合った。ウスマン氏は当時蘭領東インド時代にインドネシア独立に向け、行政運営などを学ぶために私費留学生として日本を訪れていた。二人は36年当時のバタビア(現在のジャカルタ)を経由して、ウスマン氏の故郷であるスマトラ島パダンでイスラム式の結婚式を挙げた。
■バンドンの刑務所に収容
37年長男、39年長女が誕生。「お風呂がなかったから川で水浴びてねえ。何も知らない土地でいじめられたりしたけど果物が豊富で楽しい生活だった」と長田さんは懐かしむ。
パダンではウスマン氏は市議会議長やインドネシア語の新聞の主筆などの仕事をした。一方でインドネシア独立運動を啓蒙していたため一家は常にオランダ軍官憲に監視されていた。41年12月8日日本軍の米・真珠湾攻撃後すぐにウスマン氏は民族独立の指導者として逮捕され、幼い子も一緒に一家はバンドンの刑務所に収容された。その後オランダ軍は降伏し、解放された。
一家はパダンへ戻り、ウスマン氏はパダン市長、パダン日報の主筆となった。長田さんは日本語教師などをした。パダンに駐留した日本軍の第25軍から民衆の取りまとめの要請があったが、「私と夫は独立に協力してくれるならと協力した。あくまでもアドバイザーの立場だった」。日本軍からの一切の報酬は拒否した。
軍部との約束の独立支援が一向に進まないため、42年に一家4人は日本軍司令官に抗議するためにシンガポールから箱根丸に乗り日本に向かったが、台湾沖で連合軍に撃沈された。九死に一生を得て門司に上陸、東京に着いたが一家はインドネシア民族独立運動の危険人物とみなされ特高の監視下に置かれた。
戦局は悪化しウスマン氏も栄養失調から肺炎となった。空襲を避けるため、一家は長田さんの実家のある甲府に疎開した。45年終戦。インドネシアはオランダとの独立戦争を経て49年独立を勝ち取ったが、一家が故郷へ帰ることは日本のサンフランシスコ講和条約締結後の51年まで許されなかった。「8月17日の独立の日、甲府で切れ切れの短波放送から流れる『インドネシアラヤ』を聴きました。うれしかった」。
55年ウスマン氏死去。48歳だった。当時41歳の長田さんは4人の子どもを育てるために生活の拠点を東京に置き、通訳などの仕事を続けながらインドネシアと日本を行き来した。
89年ウスマン氏に代わり、独立運動先駆者として西スマトラ州政府から叙勲を受けた。東京で長く暮らしていたが、近年「 インドネシアで暮らしたい」と長女で産婦人科医師のサルミヤさん(74)と、現在チプテで一緒に暮らしている。
人生を振り返り「うかうかしてたら100歳になっちゃった」と笑わせて、「何をしたら他人のためになるのか考える。それが私の本望です」と話した。インドネシアの未来については「子どもたちが勉強の大切さを自覚すること。ジョコウィさんが教育を徹底させればこの国はどんどん良くなります」。
■本と散歩、好き嫌いなし
ドリアンもなる果物の木が豊富な庭を、長田さんはゆっくり散歩する。2周するのが日課だ。
素封家に生まれ勉強が良くできた。大学生の時、実習で東京・深川の貧民窟に行き住民の健康管理をしていたとき、調査に来たウスマン氏と出会った。
「ごく自然に母は他人のために何かする感情を持っています」と長女サルミヤさんは話す。78年前に来イし日本、オランダとの間に立ちインドネシア独立の最前線を夫ウスマン氏と歩んできた。激動の人生と語られがちだが「母には当たり前に人生を過ごしただけなのです」とサルミヤさん。
長田さんは新聞や本を読むのが大好きだ。「勉強することが大切です。日本人も自分だけ偉くなったと思ったら大間違いですよ」。声が大きくなった。「6人の孫全員と食事できるように」とあしらえた大きなダイニングテーブルでとる食事には、三食少量ながら多数のおかずが並ぶ。魚、揚げもの、蒸した野菜、味噌汁、のりなど日本とインドネシア料理の両方が並ぶ。 「私よりも食べます」とサルミヤさんは笑う。お酒も来客があったときに少したしなむ。今は「日本酒の久保田がおいしい」と話した。(阿部敬一)