【村を翔たオバマの母(1)】 バラクとジャカルタへ シングルマザーの新生活

 1967年10月、栗毛色の髪を肩まで伸ばした白人女性が、縮れ毛の男の子の手を携え、丁子の香り漂うジャカルタ・ハリム空港のタラップに降り立った。20代半ばの若い母スタンレー・アン・ダナムと、ケニア人の前夫との間に授かった当時6歳のバラク・オバマにとって、初めて訪れるインドネシアだった。常夏のハワイと変わらず日差しがまぶしかった。
 出迎えたのは、西ジャワ州バンドン出身のロロ・ストロ。ハワイ大学で知り合った2人は64年に結婚していた。一足先に帰国していたロロは、人類学部を卒業したばかりの妻とバリー(オバマ幼少期の呼称)との新生活を心待ちにしていた。

■ ハワイで2度結婚

 アンは一風変わった少女だった。キャリアウーマンだった母と、自由奔放な父の間に生まれた一人娘。保守的な風土の中西部カンザス州で生まれ育った。父の仕事の都合で一家がハワイ州に移り住んだことが、アンの人生を決定づける。
 本土とは異なる「多人種の島」で、出身国(民族)別では日系人が2番目に多い。ハワイ大はさまざまな国から留学生を受け入れ、アンは人類学部の語学クラスでバラク・オバマ・シニアと知り合う。61年に結婚し長男オバマを出産。まだ18歳だった。しかし翌年、ハーバード大奨学金を得たシニアは米本土に1人で行ってしまい、夫婦は不仲となる。その後、アンはハワイ大の東西センターで63年にロロと出会い、翌64年にシニアと離婚後、ロロと再婚した。「アンは、肌がいわゆる有色の男性にしか目を向けなかったわ」と親友のインドネシア人作家、ジュリア・スルヤクスマ(62)は思い出して笑った。

■ 自立への覚悟

 ジャカルタで3人暮らしを始めて3年後、愛娘マイヤを授かる。だがアンはロロとの価値観のずれや、親族付き合いの葛藤も高まり、シングルマザーになる覚悟を決めていた。
 長女を産んで数年後、アンはハワイ大大学院・人類学科へ修士入学の願書を送る。志願論文を読んだハワイ大のアリス・デューイ名誉教授(86)は「アンはジャワの工芸品に魅了され、それらを作る農村の人々、特に女性の地位向上に役立つ研究に情熱的だった」。アンは71年、オバマをハワイの両親に託し、博士課程に進んでからはロロと別居状態になり、インドネシアでマイヤとの2人暮らしを始める。
 人生の約20年間はシングルマザーだった。その素顔は自分の人生を重ねながら、異なる者、マイノリティー、弱者と手を携え闘う一人の女性だった。
               ×   ×
 オバマ米大統領の2期8年が来月、終わろうとしている。その軌跡をたどる時、インドネシアの幼少期、そして育て上げた母アンの影響を見過ごすことはできない。この国の庶民をこよなく愛した一人の女性。各地鍛冶農村の踏査を10年以上続けた経済人類学の研究者であり、農民のために奮闘したマイクロファイナンスの専門家、そして子どもたちに生き様を背中で語ったシングルマザー。その心中にはいつも、女性の地位向上を目指す熱い思いがあった。
 52歳で早世してから約20年。最期まで村を翔(かけ)たアンの半生を、旧友らの言葉や遺稿を通じて紹介する。(前山つよし、敬称略、つづく)

 まえやま・つよし 会社経営者、ライター。アン・ダナムの博士論文が再編された「Surviving against the Odds」(邦題「インドネシアの農村工業」=慶応義塾大学出版会、監訳:加納啓良)を翻訳。バリ在住。

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