【平穏な集会の理由を考えた】(上) 警察民主化に貢献 黒田憲一さん

 12月2日、中央ジャカルタのモナス(独立記念塔)広場で、インドネシア史上最大規模のイスラム祈とう集会が開かれた。その数20万人。治安部隊との衝突はなく、集会は平穏に終わった。11月4日の大規模デモでも、一部が暴徒化したが、治安部隊は放水と催涙ガスで対応した。警察が国軍に代わって治安対策の全面に立つ現在、発砲せず、平和的にデモや集会の対応が可能になった背景には、警察民主化に貢献した一人の日本人柔道家がいたことを忘れてはならない。
 80歳になる東レ・インドネシア顧問の黒田憲一さんが国家警察幹部から、警察の人材育成に協力してほしい、と頼まれたのは来イから10年ほどたった1982年だった。当時柔道5段の腕を見込んでのことだった。
 65年の9.30クーデター未遂事件以降、スカルノ大統領は事実上失脚し、スハルト将軍が治安秩序回復作戦司令部を創設、戒厳令体制を敷いた。国軍が実権を握り、警察は国軍体制下に編入された。社会治安対応の権限も国軍が握った。以降、治安対策は発砲によりデモ隊、学生、暴徒を力で鎮圧するケースが多く、流血事件も頻発した。
 80年代に入り、国内外から民主化圧力が強まってスハルト政権は戒厳令を廃止せざるを得ず、82年に治安秩序回復作戦司令部を廃止、刑事訴訟法を改正し、治安対策は全面的に警察に移管された。ところが暴徒鎮圧・治安対策に関し、突然前面に立たされた警察官、機動隊員が地元やくざなどにカマで襲撃され、22人の警察官が死亡する事件が起きた。中には空手5段の猛者も含まれていた。
 当時のアワルディン国家警察長官、スカルジョ国家警察人事部長は、柔道専門家の黒田憲一さんに対し、日本の警察官や機動隊員のような屈強かつ精神的に強靭な警察人材育成に協力してほしいと依頼した。
 黒田さんは邦人の柔剣道の有志を集め、警察大学、国家警察本部で警察幹部(大尉、少佐クラス以上)に対する猛訓練を開始した。
 70〜80年代前半の日本は、連合赤軍、東アジア反日武装戦線などによるハイジャック事件、三菱重工爆破事件、イスラエルのテルアビブ空港乱射事件、在インドネシア日本大使館ロケット弾発射事件などが続いた。一連の事件に自衛隊は出動せず、全て警察が対応した。学生運動に対しても、放水車と催涙弾で対処している日本の警察を、インドネシアは見習いたいという要望だった。黒田さんは青年海外協力隊の派遣が一番適しているとアドバイス、88年に最初の柔道専門家として安斎俊哉隊員が派遣された。
 ウィスモヨ柔道協会会長(陸軍戦略予備軍司令官、陸軍参謀長、陸軍大将などを歴任)は講道館のような施設建設を依頼、黒田さんはインドネシア柔道会館(チロト)寄贈に貢献した。その後インドネシアは東南アジア諸国連合(ASEAN)の大会で一番の柔道メダル獲得国となり、アジア大会でも銅メダルを獲得するまでになった。柔剣道を習得し警察大学を卒業した者の中には地方州警本部長として赴任する者も多く、非常に親日的で日本との友好協力関係の構築にも貢献する。
 99年、インドネシア警察は国軍から分離し、現在の民主警察組織になった。インドネシア警察の民主化改革を支援、2国間相互理解の促進、邦人社会の安全対策とその発展、並びに2国間文化交流の促進に尽力した黒田さんは現在、柔道7段である。(濱田雄二、写真も、つづく)

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