災害大国に共通課題 鉱石禁輸、WTOで解決 ルトフィ商業相・前駐日大使

 ムハンマド・ルトフィ商業相(前駐日インドネシア大使)は7日、中央ジャカルタ・ガンビルの商業省でじゃかるた新聞の会見に応じた。3年4カ月の日本滞在中、東日本大震災が発生し、同じ「災害大国」である日本とインドネシアの共通の課題を再認識したと振り返った。未精錬鉱石の禁輸問題は、世界貿易機関(WTO)で両国の利益となる解決策を探りたいとの意向を示した。
 ―日本で印象に残った経験は。
 ルトフィ商業相 日本では公務だけでなく、全く想定していなかった仕事も多かった。特に同じ災害大国として、どのように対処するかなど学ぶことが多々あった。
 日本人の印象は非常に忍耐強いということ。時間厳守など規律の面で、非常にイスラム的と感じる。特に地方へ行くと寛容な社会であることが分かる。こうした点でも、しばしばインドネシア人よりイスラム的だと感じることもあった。
 ―東日本大震災でどう対応したのか。
 震災発生の3日後、原発で重大な事故があったようだとの話が広まり、風向きで福島から北の地域に危険が及ぶとのうわさもあった。危険な状況になる可能性もあると判断し、4日後の15日にインドネシア人被災者の保護のため、宮城県石巻市の鮎川港に向かった。だが港に入るためには橋を渡らなければならない。地震で安全性が確保できず、通行が禁止されていたが、外務省の身分証を提示して被災地に入った。
 鮎川港は広く、どこにインドネシア人がいるのか分からない。そこでダンドゥット(インドネシアのポップス)を流したり、メラプティ(紅白のインドネシア国旗)を掲げたりして探し回り、見つけ出すことができた。
 6月にはユドヨノ大統領に同行し、気仙沼を訪れた。甚大な被害で復興には時間がかかると思う。アチェなどでも地震と津波に見舞われた。災害大国として両国には共通の課題があると痛感した。
 ―日本で印象に残った場所は。
 北海道のニセコが最も好きだ。日本へ出発する前、公務と別に三つほど目標を立てた。スキー、ゴルフ、マラソンで、スキーはニセコで練習した。ニセコでは全ての人が英語を話すことにも驚いた。日本滞在中に体重を6、7キロ減量できたのもスポーツのおかげだ。妻は特に日本を楽しんでいた。自分でブログをやっていて、滞在中には100軒のレストランの記事を書いた。高級料理店から路上の屋台までさまざまで、私も一緒に日本食を楽しんだ。
 ―未精錬鉱石の禁輸が問題になっている。
 世界貿易機関(WTO)でこの問題を解決することを、両国にとって否定的なことと捉えるべきではない。提訴は日本の権利であり、これに適切に応じるのがインドネシアの権利だ。両国の利益になり、両国にとって尊厳のある解決策を出さなければならない。
 いずれにしても(1月に施行された新鉱業法の)法改正は難しい。規制緩和などについては現在、協議している段階だ。私も商業省には先月17日に初登庁し、この問題も調べ始めたばかりで、詳細について答えるには少し時間をいただきたい。
 私は政府機関で働き初めて10年。今年10月20日までの任期中だけでなく、日本で仕事をした者として、日本とインドネシアの懸け橋になるとの決意は生涯変わらない。両国の利益になることのためには全力を尽くしていきたい。(聞き手 臼井研一、配島克彦)

◇ 1969年生まれ。米パデュー大卒。マハカ・グループを母体に鉱業や金融、メディアなどの分野で事業を拡大。青年実業家協会会長などを経て2005年、史上最年少の投資調整庁(BKPM)長官に就任。10年8月、駐日インドネシア大使。東日本大震災後、ユドヨノ大統領が宮城県気仙沼市を慰問した際に同行した。昨年12月、任期を終え帰国した。

日イ関係 の最新記事

関連記事

本日の紙面

JJC

人気連載

天皇皇后両陛下インドネシアご訪問NEW

ぶらり  インドネシアNEW

有料版PDFNEW

「探訪」

トップ インタビュー

モナスにそよぐ風

今日は心の日曜日

インドネシア人記者の目

HALO-HALOフィリピン

別刷り特集

忘れ得ぬ人々

スナン・スナン

お知らせ

JJC理事会

修郎先生の事件簿

これで納得税務相談

不思議インドネシア

おすすめ観光情報

為替経済Weekly