再現 マラリ事件 宴一変、恐怖の闇 反日暴動から40年 (2014年01月13日)

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 カシャン、カシャン、カシャンー。卓上のグラスが落ちた音ではない。窓ガラスが破壊されていると直感した。
 1974年1月15日夜、中央ジャカルタのプレジデントホテル(現ホテル・プルマン)裏にある日本食レストラン。日本からの経済視察団20人が宴会中だった。田中角栄首相の来イと同時期になったのは偶然である。突然停電し、部屋は真っ暗に。同行していた旅行会社社員万亀子(まきこ)・イスカンダール(31)の頭に、「暴徒」という言葉が浮かんだ。窓ガラスは投石で割れたようだ。
 予兆はあった。この日の昼、郊外の日系企業訪問を終えて都心に向かうと、道路がいたるところで警察に封鎖されていた。不穏さを感じながらも、予定を短縮して夕食に向かった。
■暗闇のなか避難
 視察団は30―40代の男性。「何だこれは」「抵抗しよう」と勇み立ち、室内は騒然となる。インドネシアの事情にある程度通じているのは25カ月前に来イした万亀子だけ。「落ち着いてください。声を出さず我慢してください」「座椅子を頭に当てて伏せてください」。思いつく言葉全てを口に出した。
 障子を少し開け出入り口をうかがうと、人の気配を感じる。「警察だ。誰かいるか」という言葉が聞き取れた。通訳して視察団に伝えると、「ここにいると叫んでくれ」とせかす。しかし、確証はない。警察を装った暴徒の可能性もある。小声で「もうしばらく黙っていてください」となだめた。近づく人影に、期待と恐怖が混在する沈黙が続く。
 さらに近づいた人影の肩に、警察の制服を示す星がかすかに見えた。不安が確信に変わると同時に、叫んでいた。「います! います! ここに日本人がたくさんいます!」。靴をはいている時間はない。各自、どれでも靴を二つ持って脱出するよう言った。 
 外の闇は不気味なほど静かだった。
 4、5人の警察官が前後に付き、誘導してくれた。裏手にある従業員通用門から宿泊先のプレジデントホテルにたどり着いた。みな裸足。ガラスの破片を踏んだのだろう、足を切った男性もいた。
■惨状伝えるプレスルーム
 同ホテル宴会場は田中角栄首相のインドネシア訪問を取材する邦人記者の詰め所になっていた。
 記者たちは現場から戻ってくるなり一気に水を飲み干し、事態の推移を慌ただしく国際電話に吹き込んでいた。
 記者のもたらす情報はメモになり、壁に張られていく。
 「若者5人が集まっている」、「20人に拡大」、「人が殴られていた」、「タイヤに火をつけた」「自動車に放火した」‥。
 内容はどんどんエスカレートする。目を背けたくなったが、それでも情報が欲しかった。
 コタ地区ではその頃、デモ隊に対する治安部隊の発砲が始まっていた。
              ×  ×  ×  ×
 この暴動は後、「1月15日の災難」を意味するインドネシア語を省略し、「マラリ」と呼ばれるようになる。在留邦人の証言や当時の報道を基に、40年前の様子を再現する。

◇サリナ閉店、徒歩で6キロ帰宅 トラック猛スピード、日章旗焼く

 14日午後5時45分ごろ、田中首相が乗った特別機が東ジャカルタのハリム空港に到着すると、学生数人が機に駆け寄った。厳戒態勢の警備の隙を縫って侵入したようだ。ターミナル2階のデッキにもポスターを掲げ、首相訪問反対を叫ぶ学生が現れた。
 いずれもすぐに取り押さえられたが、首相はスハルト大統領ら政府首脳と握手だけを交わして、すぐに大統領専用車に同乗。大統領宮殿内の迎賓館に向かった。空港周辺は約2千人が取り囲んでいた。
 大きな混乱で幕開けした首相訪問だが、在留邦人のなかに、後の惨事を予想した人はほとんどいなかった。

 服飾デザイナーのルスタム・レイコ(40)は15日朝、職場のあるタムリン通りのサリナデパートに出勤した。ちょうどこの頃、首脳会談の会場である大統領宮殿ではデモ隊の包囲が始まっていた。
 サリナが営業を続けていた最中、学生は大統領宮殿への侵入を敢行。警備隊や装甲車に制止されると反発し、近くの日本車を運河に放り込んだり火をつけたりと、暴徒化の様相をみせていった。
 午前11時ごろ、同僚の誰かが「暴動が起きた。デモ隊が通りを南下してくる」との知らせをもたらした。店内にいても屋外のざわめきが聞こえ始める。上層階からは、コタの方向に煙や火の手が見えた。サリナは宮殿から約2キロ。
 にわかに色めく店内。すぐ閉店が決まり、正午ごろには全てのシャッターを降ろした。男性幹部2人が付き添い、レイコは南ジャカルタ・パンチョランの自宅に帰ることになった。
 タムリン通りは火炎瓶を持った若者が練り歩いており、危険と感じた。裏道を抜けたが、幹部からは「日本人と分からないようにして」と注意された。
 デモ隊のいない道路も、避難する人で埋め尽くされていた。自宅までは直線距離で約6キロ。砂利道を歩くのに2時間かかった。今でこそ、ジャカルタを代表する道路となったスディルマンやガトットスブロト通りがアスファルト舗装されたのはずっと後になってからだ。
 夜になり、インドネシア中銀勤務の夫が帰宅した。この日午後から騒然とする通りを自家用車で巡り、サリナや日本人が多く集まるプレジデントホテルで、レイコを探していたのだという。
 夫の車の天井にも若者が飛び乗り、「ムルデカ(独立)」と雄叫びを上げる。仲間だということを伝えようと、ハンドルを握りながら「ムルデカ」と叫び返したという。

■靴買うと出かけ
 プレジデントホテルに逃げ込んだ万亀子一行は、襲撃されたレストランから運んだ靴を確認したが、2人が片足分しかないことが分かった。翌朝の飛行機に乗る予定だったが、片足はだしでは帰れない。ロビーにいたインドネシア人男性が「おじが靴屋なので買ってきてあげる」と申し出た。万亀子は財布から金を出し渡したが、帰ってこなかった。
 だが、彼が火事場泥棒だとは思っていない。この騒ぎでは戻って来れなかったのだろう。あるいは災難に巻き込まれたのかもしれない。後々まで、巻き込んでしまい申し訳なかったと悔いることになる。
 時間は定かではないが、万亀子の目に焼きついている光景がある。
 プレジデント同様に、ホテルインドネシアも首相随行者を受け入れ、ロータリーに面したポールには日章旗が掲げてあった。部屋のカーテンごしに外をのぞいていると、デモ隊を満載したトラック数台が猛スピードで南下してきた。斜め前方に見えるロータリーで停まると、運転席屋根の上で肩車を組んで、日章旗を引きずり降ろし、火をつけたのだ。
 万亀子は外国で見る国旗に特別の愛着を抱いていた。その国旗が地面で燃えている。悔しくて怖くて、部屋の中で声を出して泣いた。
 窓からは在インドネシア日本大使館前で群衆に向かい、解散を呼び掛けるインドネシア政府高官の姿も見えた。
 プレジデントホテルの380室は、いずれも避難してくる在留邦人であふれていた。
 15日をピークにデモは沈静化したが、クマヨラン空港に日航機が到着し、経済視察団が帰国できるようになるまで、さらに3日かかった。

■運転手らの親切痛感
 40年が経った今、万亀子は事件を振り返り、この国の怖さと同時に、人々の温かさや親切さを学んだと思っている。
 運が良かったという言葉だけでは言い尽くせない。怖いというのは自分の力だけではどうにもできないことがたくさんあるということを知ったこと。それでも、道路封鎖に遭いながら辛抱強く抜け道を探したバスの運転手、護衛してくれた警察官、靴を買いに走った男性|。
 あの日も、今も、自分はこの国に守られ、目に見えない何かに支えられて生きていると感じている。(敬称略)

◇タクシー借り切りコタへ 2人体験を証言  放火される日本車、怖かった

 マラリ事件当時、中央ジャカルタのインドネシア大学(UI)サレンバキャンパスに通う日本人学生がいた。UIのインドネシア語コースに通っていた現アル・アズハル大文学部の高殿良博教授(当時31歳)と社会政治学部の学生だった野村昇スラバヤ総領事(同21歳)に話を聞いた。

■制服の高校生も集結
 高殿さんは15日、日本車に乗ると襲われる可能性があったため、通常の3倍以上の料金を支払い、ドイツ製ベンツのタクシーをレンタルし中心部を視察した。運転手は日本人ということで最初、乗車を拒否した。「好奇心から暴動を自分の目で確かめたかった」と当時を振り返る。
 スディルマン通りからタムリン通りを通って被害の激しかった西ジャカルタ・コタ地区も見て回った。ジャカルタ中心部にはトラックの荷台に乗った制服を着た高校生や大学生らしき若者が続々と集結していた。スディルマン通りのトヨタのショールームから火の手が上がり、コタ周辺では日本車が川の中に放り込まれていたり、放火されていた。目を充血させた暴徒が金属棒で車の窓ガラスを叩き割っていたという。
 暴動の参加者から日本人と分からないように細心の注意を払った。「怖かった。日本人の顔だとわかれば何をされるかわからなかった。温厚なインドネシア人が怒ったらこわいと感じた」。事件後、邦人たちは身の危険を感じ、車にインドネシア国旗を付けたり、ペチ(イスラム帽)を被っていたという。
 「この事件は日本とインドネシアの関係を見直す契機になった。謙虚でありつつ、誇りも失わず接していくことが大切だ」と力を込める。

■前年12月、大学で反日集会
 日本へ一時帰国していた野村さんはちょうど15日に入国の予定だったが、戒厳令下のクマヨラン空港に着陸できずシンガポールに引き返した。
 16日に到着すると、日本人でUIの学生だったため入管の特別室に連れて行かれ「この時期になぜ入ってきたのか、学生運動をやっているのか」と尋問された。当時の反日暴動の中心人物が同じ学部の学生だったためだ。
 その後、中央ジャカルタのサリナ裏にある下宿先に帰るのだが、帰る手段が無い。やっと「闇タクシー」を捕まえた。
 運転手は「ソファーの下に隠れろ。ばれれば襲われる」と言った。「とっさに怖いとは思ったが、大学の仲間がやっているから、自分が襲われることはないと感じた」と振り返る。途中、中央ジャカルタのスネン市場付近では、装甲車と学生が対峙し、軍が発砲していた。
 前年秋からスハルト政権下で下火だった学生運動が息を吹き返し、各地の大学へ飛び火していった。12月中旬ごろ、UI内で決定的な出来事があった。日本の経済政策を批判する学生集会が開催されたのだ。しかも野村さんは学部仲間から「演壇でしゃべってくれ」と依頼されたという。
 野村さんは「スハルトに不満を持つ軍人グループと学生が結びついた可能性がある。当時の経済政策は国内でも不満があった」と指摘。「不満の矛先が経済大国で『エコノミック・アニマル』と言われていた日本に向いたのではないか」と分析した。

◇軍の権力闘争絡み複雑化 事件の背景

 田中首相が出国した直後の16日午前、スハルト大統領は閣議を開き、報道規制やデモの禁止、事件の責任者の捜査などの措置を決定した。政府は1週間後、「暴動は政権打倒と憲法改正を目指す謀略だった」との結論を発表。50年代末、スマトラ反乱に関与したとして、非合法化された旧インドネシア社会、マシュミ両党の幹部の関与も示唆した。
 ただ、マラリ事件は、突然火を噴いた訳ではない。前年8月には、華人の絡む交通トラブルを端緒に、西ジャワ州バンドンで反華人暴動が起きるなど、急激に増える外資の受け入れへの批判は数カ月前から高まっていた。
 一連の事件は華人系資本や日系企業に対する形で表出したが、スハルト政権の不透明な政治に対する不満も大きな要因となった。
 学生グループは「影の内閣」といわれた補佐官制度の廃止を要求。74年1月11日には、学生100人が大統領と直接会見し、日本とのパイプ役と言われたスジョノ・フマルダニ大統領補佐官(経済担当)への不満を伝えたほか、別室で反日ソングを歌い同補佐官を「日本へのごますり男」と批判していた。
 スハルト大統領に重用されたスジョノ氏は、もう一人の大統領補佐官アリ・ムルトポ氏とともに国軍の出身。国軍の最有力者で次期大統領有力候補とされたスミトロ治安秩序回復作戦本部司令官と敵対関係にあったとされている。
 結局、スミトロ治安秩序回復作戦本部司令官は事件の責任を問われて更迭。大統領補佐官の制度も同時に廃止されたが、ムルトポ、スジョノ両氏はしばらくして政権中枢に復帰し、権限をさらに強化した。

◇「全く知らない」66% 学生100人にアンケート

 じゃかるた新聞は今月、ジャカルタ特別州内の3大学に通うインドネシア人100人(18〜29才)を対象にマラリ事件についてのアンケートを実施した。この世代では事件を知らず、現在の日イ関係を肯定的に捉える回答が大半を占めた。
 事件について「詳しく知っている」の回答は0人で、「詳しく知らないが知っている」と答えた回答者は34人。66人が「全く知らない」と回答した。インドネシア大の人文学部に通う学生(21)は「中学、高校の授業で学習しなかった」という。
 現在の日イ関係については、52人が「良い」と回答し、45人が「普通」と答えた。「悪い」と答えたのは2人。日系企業がインドネシアに与える影響についても、「良い」の回答者が47%いた。「普通」は31%、「悪い」と答えたのが11%だった。
 現在の日本人の態度や振る舞いについては、「良い」が50人、「普通」が47人、「悪い」が3人だった。回答者からは「日本はインドネシアの経済発展に貢献している」「日本の自動車や製造技術は素晴らしい」「日本人は礼儀正しく、規律正しい」など好意的な意見があった。
 一方、「日本はインドネシアの資源や労働力を搾取している」「日本人はインドネシア人を見下している」など、現在の日イ関係を否定的に捉える意見もある。
 マラリ事件の記憶は忘れ去られているが、日本人に対し悪い印象を持つインドネシア人がいることも事実。インドネシアとの二国間関係の構築には、日本人一人一人の振る舞いが大きな影響を持つ。「インドネシアで働かせてもらっている」という気持ちを常に持ち、インドネシアの人々と接する必要があるだろう。(道下健弘、小塩航大)


万亀子・イスカンダールさん
現在はバリ在住で旅行代理店を経営し、バリ日本人会会長を務める。71歳。
万亀子・イスカンダールさん 現在はバリ在住で旅行代理店を経営し、バリ日本人会会長を務める。71歳。
ルスタム・レイコさん
1964年からジャカルタに住む。デザイナーや水泳教師などとして活躍した。80歳。
ルスタム・レイコさん 1964年からジャカルタに住む。デザイナーや水泳教師などとして活躍した。80歳。


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