【魚の町とインドネシア】(下) 友好と復興の象徴に 「バリ・パレード」再開期す 震災から1年の気仙沼  (2012年03月14日)

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 宮城県気仙沼市で、インドネシアのバリに魅了された市民が「バリ・パレード」を毎年行ってきた。昨年は東日本大震災で中断を余儀なくされたが、ユドヨノ大統領の訪問やインドネシア大使館の支援を経て、今年の夏、節目となる十回目の開催を目指している。

■日イ合作 華やかに
 気仙沼で生まれ育ち、オーディオ店を営む鈴木敦雄さん(五二)が初めてバリを訪れたのは約二十年前。「混沌としていてエネルギーがワーッとしている。日本にはない」。二〇〇二年、所属している気仙沼商工会議所青年部が参加する夏の「気仙沼みなとまつり」内のパレードで、魅力あるバリ文化を紹介しようと決めた。
 当初は「気仙沼で何でバリなんだ」という声もあった。しかし、鈴木さんはバリ舞踊や伝統楽器ガムランの簡単な振り付けや旋律を覚え、それをバリ文化を直接見聞きしたことのない市民に伝えて、パレードをともに行った。衣装やジェゴグ(竹のガムラン)、獅子舞のバロンを自費でバリから買い寄せ、さらには「世界最大級じゃないか」という軽トラックで移動するバロンも青年部メンバーと製作。規模は年を追うごとに拡大した。
 日本とインドネシアの国交樹立五十周年前年の二〇〇七年には五十周年プレイベントに認定され、ユスフ・アンワル駐日インドネシア大使(当時)夫妻は以後、毎年訪れるようになった。一〇年には水産加工工場で働き始めていたインドネシア人女性研修生たちが参加した。「やっぱりバリの衣装が似合っている」と鈴木さん。日イ合作となり、華やかさが増した。

■基幹産業復興のため
 津波で、これまでの十年間パレードのためにこつこつと集めてきたものの大半が使用できなくなった。鈴木さんのオーディオ店の品物もすべて水没。営業再開どころか、周辺地区の再建すらめどが立たない。大きな負債も抱え、仮設住宅での暮らしが続いている。
 当面、パレードへ時間と労力を割くことは難しいが、鈴木さんは「家族が生きるには地域が生き残らないと、地域が生きるには漁業が生き残らないと、漁業が生きるにはインドネシア人の助けが必要なんだ」と力を込める。
 「パレードが友好と復興の象徴になるのなら喜んでやる」

■交流の輪に広がり
 昨年六月に気仙沼を訪問したユドヨノ大統領は、これまでの功績をたたえようと鈴木さんの住む仮設住宅を訪問。ムハンマド・ルトゥフィ駐日インドネシア大使は「来年にはパレードを再開できるように」と六メートルのバロンを寄贈するなど、バリ・パレードはインドネシア人研修生に加え、インドネシア政府も巻き込むイベントになった。
 気仙沼商工会議所の臼井賢志会頭は交流の深まりを受け、「インドネシア人の看護師や介護福祉士をぜひ呼びたいし、インドネシア人船員が幹部になるための資格を取れるようにすべきとの声も大きくなっている」と語る。
 気仙沼でインドネシア人は長く遠洋マグロ漁業を支え、近年は水産加工業にも従事し始めていた。バリへの熱意から始まったパレードは震災を経て、漁業の町での日イの交流に広がりをもたらそうとしている。(関口潤、おわり)

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プレハブの仮設店舗で営業している「復興屋台村 気仙沼横丁」の料理店で、バロンの演者を務めていた佐々木貴志さん(左)と飲み交わしながら、バリ・パレードをはじめ気仙沼を盛り上げるためのさまざまな企画を練る鈴木さん
プレハブの仮設店舗で営業している「復興屋台村 気仙沼横丁」の料理店で、バロンの演者を務めていた佐々木貴志さん(左)と飲み交わしながら、バリ・パレードをはじめ気仙沼を盛り上げるためのさまざまな企画を練る鈴木さん

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