日本兵34人の慰霊碑 マカッサル市民が守る 日イ平和の願い刻む

 1945年8月17日、インドネシアが独立を宣言した。戦後、南スラウェシ州マカッサルで戦犯として処刑された日本兵34人がいた。その遺族や帰還兵は87年、マカッサル市内に住むインドネシア人、故マハカウベさん宅の敷地内に慰霊碑を建立。現在でも遺志を継いだ妻のマリア・ラドゥランギ・マハカウベさん(81)が参拝に訪れる日本人を暖かく迎え入れ、慰霊碑を守り続けている。 
 「父の終焉の地は私の第二の故郷。マハカウベさん一家は大切な存在」。47年に処刑された海軍中尉の本村茂樹さん=当時(37)=を父に持つ山下裕子さん(70)ら遺族は6月19日、マハカウベさん宅を訪れ、戦没者への冥福を祈った。
 海軍医大佐の櫻井好文さんの遺族は今回、初めてマカッサルを訪れた。「やっと父の最期の地を見る事ができて、胸が一杯だ」。慰霊碑の前で合掌した。南スラウェシ日本人会も春と秋の年2回、慰霊祭を開いている。
 終戦後すぐ、敗戦国の兵士として捕まった海軍の34人は、46〜49年の間に連合軍の軍事裁判で死刑判決を受け、マカッサルで銃殺された。34人の中には現地で商業活動に従事していた民間人なども含まれ、取り調べ調書などの、不備が指摘されるなど裁判の公平性を疑う声もあるという。
 その後、遺体は処刑場近くに埋葬された。厚生省の遺骨収集団は64年、マカッサルを訪問。遺骨を日本に持ち帰ったとされているが、遺族の元には返還されなかった。裕子さんは当時の遺骨伝達式について「箱の中身は石ころのようなものしかなかった。いつか、インドネシアに眠る父に会いに行くと誓った」と振り返る。
 85年、裕子さんは父の同僚だった帰還兵とともに初めてマカッサルの地を踏む。処刑場は軍の所有地で敷地に入るには許可が必要だった。線香やろうそくを立てての参拝に「火をたくな」と注意された。遺族は遺骨収集を求めたが、インドネシア側は拒否。現在に至るまで遺骨は軍の敷地内に眠っているという。
 軍との交渉の席に同席したのが、近隣住民で警察官だったマハカウベさんだ。遺族の置かれた状況を見るに見かね、処刑場だった場所の近くにある自宅の庭先を提供、定期的な参拝を承諾した。遺族らはマハカウベさんの厚意に深く感謝したという。
 87年10月には遺族らが中心となって結成した「インドネシア友好友の会」が資金を集め、日本から御影石を持ち込み慰霊碑を建立した。「日イ友好と平和を希求する」。慰霊碑にはメッセージと戦没者34人の名前が刻まれている。
 90年ごろに亡くなったマハカウベさんの死後は妻のマリアさんが慰霊碑の管理を引き継いだ。いつでも遺族が訪問できるよう線香やろうそくを準備し、太平洋戦争時の日本軍の様子などを伝えてきた。
 マリアさんは現在、足腰が弱っているため、娘のインテさん(49)が管理している。父、母の代から親子2世代。遺族ら日本人との交流を楽しみにしていた母の姿を見て、慰霊碑を守っていく使命を感じたという。「慰霊碑には亡き父の思いが込められている」。インテさんに引き継がれた慰霊碑は、遺族とマハカウベさん一家の関係を超え、日イ両国を結ぶ友好の証となっている。
 昨年、山下さんや海軍中将の森国造さん、海軍憲兵准尉の古瀬虎獅狼さん(ともに故人)の遺族は、慰霊碑の中に遺品などを入れたタイムカプセルを収めた。裕子さんは「タイムカプセルを開ける時に世界が平和になっていてほしい。若い世代の人たちに慰霊碑から戦争の悲惨さを感じてもらえればうれしい」と力を込める。
 建立から26年。マハカウベさん宅の慰霊碑を訪れる参拝客は後を絶たない。27日には、岡山県から遺族団が訪問する予定だ。(小塩航大)

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