検索結果
検索ワード:「インドネシア香料諸島」 全部で109件見つかりました。
-
旅の幕は温泉で バンダの島々はかなたへ
戻ったアンボンで、渓流を登り滝を目指すが、シニア2人は途中でギブアップ。滝にたどり着けたのは駒谷邦子さんだけだった。 港には違法侵入で拿捕(だほ)されたタイからの漁船。この一帯は魚群の濃い豊かな海で、近隣諸国からの密漁船も多いらしい。...
-
バンダとお別れ にわか雨とともに
火山島には崩壊寸前の要塞(ようさい)跡が二つもあるということを、「ビジット・バンダネイラ(Visit Bandaneira)」という観光情報サイトで知った。カロンボ要塞(Benteng Calombo)とデポット要塞(Benteng De...
-
往時のざわめき感じ 幾多の繁栄と衰退
オランダ東インド会社(VOC)の総督邸の一角にある建物が17世紀の末に建てられたハーモニー・クラブである。ここは、蘭印政府の文官や軍人、農園主の他に一般の地元の人々の集まりにも使われた。いわば社交クラブで、お茶会、カード遊び、食事会、音楽...
-
総督邸に走り書き 孤立無縁な場所
バンダネイラには、この島に流されていた民族独立運動家2人の名前を冠した水産大学(Hatta-Sjahrir Marine Sciences and Fisheries College)がある。立派な建物だ。現在のバンダの主要産業は漁業であ...
-
日本人傭兵の絵も 博物館の展示
英仏間で結ばれていたアミアンの和約が1803年に破棄され、イギリスは次々にオランダの植民地を攻略した。イギリス海軍大佐のクリストファー・コールは1810年の8月に、バンダネイラを襲い、ベルギカ要塞を奪い取った。そしてその翌年にイギリスは、...
-
町歩きに出発 バンダネイラ
ヨーロッパの征服者が来るまでに居た元のバンダ人の子孫は、今はほとんどバンダには居ない。1621年にオランダ東インド会社(VOC)総督であったクーンが、オランダに盾突いた土地の有力者だけでなく、成人男性の大部分を殺した残虐行為の結果である。...
-
貴族のような生活 かつての農園主
ロンタール島からの帰り、島民の足の小舟を見かけた。ネイラ島での仕事や、買い出しの帰りであろうか。また、コラコラ船もあった。コラコラ・レースの練習をしているようだ。コラコラ船は今は小型で、レースで使われることが多い。本来は100人も乗せる伝...
-
お目当ては要塞 「ベンテン博士」とも
ネイラ島の宿は、バンダ諸島の中でこれ以上は望めないであろうホテルであったが、わが一行の島での最終日には、海洋水産大臣のイブ・スシ一行が来るので、部屋をあけて初日に泊まったゲスト・ハウスに移るよう言われた。スシ大臣は、不法にインドネシア領...
-
景色が十二分に補う 寂しい要塞跡
インドネシアでの資源保護のためのサシ(Sasi)という制度について触れておきたい。これはマルク諸島で17世紀に既に始まっていた制度であり、海、川、森そして田畑から生まれる資源(動植物、魚)の保護、および住民への公平な分配を目指すもので、捕...
-
ブルーケさんを訪ねて バンダに残る農園主
ロンタール島のナツメグ農園の主であるブルーケさんはまた、農業省に協力して、ナツメグの苗をインドネシアの他の島に供給している。また、アイ島で見学した「Well Farm」の持ち主もブルーケさんの一族である。彼の出自のことなど、プライベートの...
-
ナツメグの香り漂う 昔からの農園を見学
ロンタール島には明るい色の外装の新築と思しき立派な家もある。学校帰りの少年がポーズを取ってくれた。 コラコラ(Kora kora)と呼ばれるマルク諸島の伝統的なカヌーがあった。一般的なのは長さ10メートル程度で、横幅は大変狭い。竹製の...
-
今もナツメグを算出 歴史に思いはせ
ナツメグの木には一年を通していつも、黄緑ないし濃緑の美しい葉が茂っている。葉が枯れて落ちると、すぐに若い葉が交替する。実は時がくると自然に果肉が半ば開いて、種子を被っている魅惑的な赤色のメースを見せる。バンダ諸島が今でも最上質のナツメグを...
-
「廃虚」のまま保存
■アイ島 次に向かったのは、ルン島と同様に最初はイギリスが占拠し、後にオランダと激しく覇権を争ったアイ島(Pulau Ai)である。ナイラカ島から約5キロ東にあり、大きさはルン島とほぼ同じ。この島もナツメグの重要な産地であった。 1...
-
忘れがたい記憶 後ろ髪を引かれ
ルン島の路上でオジサンたちが井戸端会議をしていた。男のおしゃべりも楽しそう。バンダ諸島の多くの男は、海が穏やかな日は漁師、時化(しけ)の時には畑で働いていると聞く。彼らは、もうセミ・リタイヤの方々か。多分この島まで来る日本人は珍しいのだろ...
-
【続・香料諸島の旅(旅編)】(6) 静かで穏やかな村 日本軍も来ていた
ルン島(Plau Run)が見えてきた。4キロ×2キロの小さな島だ。1603年にイギリスの船がバンダ諸島に向かった時、偶然の強風でルン島に吹き寄せられたことから、この島に地歩を築き、隣のアイ島と併せイギリスが優位を確立していった。第2次英...
-
壮絶な人間の営み 漂う静けさ
オランダ東インド会社(VOC)のクーンは44人の捕虜の虐殺の他に、オランダと結んだ契約に従わないという理由で、当時8千~1万人いたと言われるバンダ諸島の住民のほとんどを殺している。その契約とはオランダがバンダを支配し、ナツメグを独占するた...
-
二つの要塞 ネイラ島を歩く
ネイラ島のベルギカ要塞(ようさい)には地元の観光客と思しきいくつかのグループの人たちが来ていた。ここの歴史にどの程度興味があるのだろうか。あるいは単にこの美しい景色を楽しみに来ているのか。城壁には大砲が5門残されている 。 見学者用の...
-
期待と一抹の不安 ネイラ島に上陸
海風にあたりたくてデッキに出る。アンボンの島影が遠ざかっていく。進路の左手にセラム島を見ながら南東に進む。白い波しぶきが描く航跡、流れる青い海と虚空とを飽きもせず眺めていた。モンスーンの時期は風雨が激しく、波も高くて航海は楽ではないらしい...
-
スピード・フェリーを選択 バンダ6島へ
事前に頼んでいた翌日のバンダ行きフェリーの予約が気になるが、朝早めに港に行けば大丈夫だというので、訪れた「町へのゲート(Pintu Kota)」から町の中心地に近い丘に上がり、夕日を見ることにした。 途中で出会ったアンボン娘、オートバイに...
-
なぜか懐かしい 4度目のアンボン
正午に関西空港を出て、夕刻にジャカルタ着。東京から到着した今城進さんと合流し、空港近くのホテルにチェックインした。2016年のアンボン、テルナテ、ティドレへの旅を書き綴った「香料諸島紀行記」を「じゃかるた新聞」に掲載したいとの申し出を受け...
-
衰退の一途たどる 奴隷制と独占は廃止
バンダ諸島ネイラ島の邸宅を改装するのに農園主は大金を費やし、ネイラの町は蘭領東インドの飛び地のショーケースのようになった。農園主の有望な子息は旅行や留学目的でオランダに行き、娘たちは財産目的の軍の士官と結婚することもあった。 奴隷制と...
-
奴隷制の廃止 シルバー・エイジの時代
ウィラード・A・ハンナ(1911~93年)著の「インドネシア バンダ」にバンダ諸島の1854年の人口構成が詳しく出ているので、参考までにここに掲げておきたい。 1854年のバンダ諸島人口は6333人。島別には、ネイラ島3201人、ロン...
-
多様な人種が混在 相次ぐ自然災害
イギリスがベンクーレン(スマトラ島の西海岸)への移植に成功したことが一因ではあるが、ナツメグ、メースの価格は下落し、英国の会社にとっても密売人にとっても、この商売はそれほど魅力的なものではなくなった。 18世紀末のイギリスの2回目の占...
-
バンダ以外で生産へ アフリカでも成功
17世紀前半にスパイス戦争でオランダに負けたイギリスは、インドに進出することにより、香料から手を引き、キャラコ(インド木綿)、絹織物、コーヒー、茶に転換していった。 1790年代の一時的なイギリスによるバンダ支配は、オランダがバンダ...
-
自然災害で「倒産」 VOCも解散
バンダからのナツメグの輸出は、当時の価格で10億ギルダーを超えるものであったが、誰も真正なバランスシートを作成しようとはしていなかった。オランダ東インド会社(VOC)の富が多分に幻影であったようにバンダの農園(プランテーション)やその主た...
-
衰退する香料貿易 VOCの経済破綻
農園主は、火山の爆発、地震、津波、嵐などで被害を受けた時には、オランダ東インド会社(VOC)に借入を依頼するのみならず、既存の負債の減免を頼まざるを得なかった。VOCは彼らにスパイスを依存していたので、特に無能な農園主を除いて、要求に応じ...
-
【続・香料諸島の旅(歴史編)】(25) 良い時代が続いた 17世紀のバンダ諸島
17世紀のバンダは、オランダ東インド会社(VOC)、農園主、奴隷、そして新しく生まれた混血児たちにとって良い時代であった。1633~38年の間、バンダに住みVOCに兵士として仕えた後、商人、ジャーナリストの経験を持っていたあるドイツ人の記...
-
【続・香料諸島の旅(歴史編)】㉔ マンハッタンと交換 英蘭がバンダ・ルン島と
バンダ諸島の歴史の中で、大変興味深い逸話の一つが、ルン島とアメリカのマンハッタン島の交換である。オランダがそれまで支配していたアメリカのマンハッタン島をイギリスに譲り、その代わりにナツメグの木の生い茂る島であったルン島をイギリスから正式に...
-
寄せ集めの農園主ら バンダ諸島に定着
オランダ東インド会社(VOC)とバンダ諸島の新しい農園主の関係はいつもとげだらけで、厄介なものであった。それでも1627年までには、68の農園では始めの頃よりナツメグ・メースを多く産出できるようになり、農園主たちはしばらくほっとすることが...
-
移住民がナツメグ生産 VOCが新システム導入
オランダが大多数のバンダ住民を殺りくし、一部の住民は別の島に逃亡したため、クーンはバンダで手にしたものは、ほとんど働き手のいない非生産的な島であることを知り、次の計画に着手した。バタビアに戻り、バンダ諸島へ移住を希望する者を募った。バンダ...