戦前から歌い継がれているクロンチョンの名曲「ブンガワン・ソロ」の作詞・作曲者として知られるグサン・マルトハルトノさん(八七)が一日、中部ジャワ州の古都ソロからジャカルタを訪れ、全作品の歌詞や楽譜、歌の背景などを編さんした豪華本「国民的作曲家シリーズ第一巻・グサン」の出版記念会に出席した。日本人にも古き良き南国歌謡として、愛されてきたブンガワン・ソロだが、時代とともにそのようなイメージも変わりつつある。グサンさんは「若い世代の日本人にも、日イ友好のシンボルとしてブンガワン・ソロを歌い継いでほしい」と期待する。先月八十七歳の誕生日を迎えたばかりのグサンさんに近況を聞いた。
「ソロから出ることもなくなり、ジャカルタに来るのは数年ぶり。年だから、体が言うことをきかない。でも毎朝午前四時半に起床し、お祈りの後、家の回りを散歩するのが日課。杖も使わずに一人で歩ける」
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数年ぶりにジャカルタを訪れたグサンさん
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| グサン・マルトハルトノ 1917年10月1日、中部ジャワ州ソロ(スラカルタ)生まれ。演劇や歌を披露する楽団に参加し、第2次大戦中は日本軍の慰問団としてジャワ、スマトラ島各地で歌う。スカルノ政権時代の63年、政府の文化使節団として中国、北朝鮮を訪問。80年に初来日、友好団体などの招待でこれまで5回訪日し、東京、横浜、大阪などで公演している。92年、スハルト元大統領から文化勲章を受章した。クロンチョンのほか、ジャワ語で歌われるランガム・ジャワなど44曲を作詞作曲。ソロ市内の自宅で妹、弟の家族とともに暮らす。 |
ジャワの正装を身に付けたグサンさんは、終始しっかりとした口調で話す。往年の名歌手のよく響く声は変わらない。腹痛になることもあるが、定期検診を受けており、体調は良いという。
「ソロ市郊外のブンガワン・ソロ近くに住んでいた時は、ソロ川の河畔に行くこともあった。でも、二〇〇二年に市内に引っ越したので、今では月一回、『日本グサン基金協会』の友人たちが川沿いに建設してくれたグサン公園を訪れるぐらい。そこで開かれる演奏会を見に行くこともある」
八八年に訪日した際、瀬戸大橋の美しさに感動して同名の曲を作曲。九六年に独立戦争で戦死した弟を回想して詞を書いたほか、〇二年には最新録音のアルバムを発表するなど、現役の音楽家でもある。グサンさんは「遠出はもうできないが、今でもお呼びがかかれば歌いますよ」と笑う。
テレビを通じ、最近の音楽もよく聴くという。「ダンドゥットやチャンプルサリ(ジャワのポップス)、ロックなど、いろんな音楽番組を楽しんでいる。クロンチョンを聞く人は少なくなり、私自身、せいぜい週に一回ぐらいしか聞かなくなってしまった。でも、ソロにはまだたくさんクロンチョン楽団があり、活発に活動している」
ブンガワン・ソロは第二次世界大戦中、ジャワに侵攻した日本兵の心をとらえた。戦後に松田トシが日本語詞をつけて録音し、日本で最もよく知られる東南アジアの流行歌となり、オランダ、シンガポール、マレーシア、中国など各国で歌われた。
クロンチョンは、スカルノ初代大統領が地方の民謡をクロンチョンにアレンジするなど、ナショナリズムを高揚させる国民音楽として奨励。流行歌から学校で学ぶ「唱歌」となったが、クロンチョンを代表するヒット曲であるブンガワン・ソロは、ジャズやディスコ風にアレンジされるなどして、歌い継がれている。
グサンさんは「どんなスタイルで演奏するのも、その音楽家の自由。ただ、時代の流れとともに、クロンチョン特有のリズムはすっかり失われてしまった」と寂しげな表情を見せる。
日本軍の慰問団として各地を巡演したグサンさんは、八〇年代にグサン基金協会を設立した元日本兵らとの交流も続けていたが、近年は途絶えがちだという。
「最も親しかった元日本兵の友人はもう亡くなってしまった。しかし、ブンガワン・ソロが好きになり、わざわざソロの自宅まで私に会いに来てくれる日本人もいる。インドネシアと日本の友好のシンボルとして、若い世代の日本人たちにもブンガワン・ソロを歌い継いでいってほしい」