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2002年4月20日のトップニュース
「言葉を学んで架け橋に」
インドネシア大留学の主婦
翻訳家・日本語教師目指す
工場、農家、漁場、工事現場など、いま、日本各地で数万人のインドネシアの若者が働いている。ある時、工場に派遣された研修生の一人が、社長にしかられて泣き出した。その光景にカルチャーショックを受けた平松あけ美さん(五○)=奈良県出身=は、「言葉を学んで、彼らを励ましてやりたい」とインドネシア語の勉強を始め、ついに留学する決断をした。
インドネシア大学文学部インドネシア語学科聴講生の平松さんは、夫の利浩さん(五一)を日本に残し、二○○○年十一月、単身ジャカルタにやって来た。
同大の外国人対象のインドネシア語コース・BIPAの最上級「3」を昨年八月に卒業した後、インドネシア人学生に一人混じって「上級インドネシア語」や日本語学科の授業を聴講、翻訳家や日本語教師の夢に向け研鑽を積む毎日だ。
平松さんは、広島県因島市にある造船下請け工場で働いていた。一九九七年六月、研修生として二十代のインドネシア人男性三人が入社した。二カ月ほど経ったころ、その一人が皆の前で社長にしかられて泣いた。
「大の大人が泣いたのにびっくりした。インドネシアでは人の前でしかるということをしないので、恥ずかしかったようだ」
平松さんは、カルチャーショックを受けた。励ましてあげたいと思い、インドネシア語の本を買い、独学で勉強を始めた。覚えたてのインドネシア語で話しかけると、三人とも、すごく喜んでくれた。
「会社の中には『東南アジア人はいいかげんだから』『言うことを信じちゃいけないよ』と言う年輩の人も多かった。インドネシア人をさげすんだり、排他的なのが悲しかった」
二十代の時、一年間カナダに語学留学した。その時、「ジャップ」と言われて差別された自分の姿とも重なった。「インドネシア人は言われているようではない、ということを自分が身をもって体験したかった」と勉強に熱を入れた。
社内でインドネシア語を話す日本人は平松さんだけ。昼休みの三十分間、インドネシア語を教えてもらうようになり、すっかり親しくなった。日本語の勉強を手伝ったり、電気製品のバーゲンに連れて行ったり、「女の子と仲良くなりたいが、怖がられてしまう。どうしたらいいか」という相談に乗ったりもした。
アジア通貨危機の際、造船下請け工場で働くインドネシア人の賃金が抑えられ、全員が「帰国する」と言い出したことがあった。
平松さんが「こういう問題が起きている」と社長に伝えたため、会社側が説明会を開き、インドネシア人が納得して残留を決めたこともあったという。
インドネシア語を勉強して実際に使っているうちに「どんどん上手になっているという錯覚に陥り」、インドネシア語の翻訳家を「生涯学習のつもりで」志す。
日本では、帰宅してから一、二時間机に向かい、「バタオネの初級インドネシア語」を勉強したり、週刊誌「ガトラ」の記事を日本語に翻訳してからインドネシア語に翻訳し直していた。
だが、広島にはインドネシア語の学校もなく、先生もいない。「これ以上一人で勉強していても伸びない」と限界を感じた。
「東京や大阪に学校はあるけど、そこへ行くより、インドネシアに行った方が生活費が安い」と、勤めていた部署が不況で閉鎖されたのをきっかけに、留学を決心した。
さぞ大きな決意がいっただろうと思いきや「ちょっと行って来ます、という感じ。インドネシアの雰囲気は子供のころの日本に似ている。すごく遠くに来ているという感じがあまりしない」と言う。
ジャカルタに来てから、大学での手続きや下宿探しなど、全部、元研修生が手伝ってくれた。
ヒアリングは上達したが、インドネシア語の難しさを感じている。インドネシア人学生に混じって聴講している今の授業は「三○%分かればいい方。正しく美しいインドネシア語、というのはインドネシア人にも難しいようで、よく先生から注意されている」と言う。
将来は、翻訳家になったり、日本にいるインドネシア人就労者に日本語を教えるのが夢だ。
「もう年だから目標達成はできないかも、と薄々は思っている。だけど、別にめげることはない。努力はやめたくない。急ぐことはないので、人の三倍四倍かかっても、できるだけ目標に近づきたい」
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