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2001年2月28日のトップニュース
抗争の死者400人突破
避難民、バンジャルマシンへ脱出
中部カリマンタン・サンピット
中部カリマンタン州の住民抗争は二十七日も続き、震源地サンピット周辺の町で大量の遺体が発見され、死者は四百人を超えたとみられる。首都パランカラヤで焼き討ちにあった建物は五百戸に達した。避難民は南東約二百五十キロの南カリマンタン州の州都バンジャルマシンへ脱出、その後、船でスラバヤに向け出発した。
東コタワリンギン県当局によると、最初に衝突が起きたサンピットの東百十キロのパレンゲアン町で、百十八体の遺体が発見された。地元警察によると、パランカラヤへ避難する途中のマドゥラ人が襲われたという。サンピットの死者だけで三百八十八人に達した。
ジャカルタから空輸された援助物資十四トンはサンピットに到着。政府関連の建物やテントで市民に配給されたが食糧不足が深刻化している。
中部カリマンタン州警察は、パランカラヤの大通りや商店街で、武装した暴徒を検挙。二十七日までに八十四人を逮捕した。暴徒を傍観する警官の姿も報道され、ダヤック人の略奪行為は放置されているのが現状だ。
スシロ・バンバン・ユドヨノ政治・治安・社会担当調整相は「非常事態宣言は、三日ほど様子を見てから決定する。州知事、州警察本部長、国軍地方司令官が発令を望むなら、政府は支持するが、事態が鎮静化されるまで時間はかからないだろう」と楽観的な見通しを述べた。
またユドヨノ調整相は「民族間の抗争を宗教抗争に歪曲しようとする人物がいる」と指摘。キリスト教徒のダヤック人とイスラム教徒のマドゥラ人の住民抗争を、宗教的問題として見ることに懸念を表明した。
イスラム知識人のヌルホリス・マジッド氏は、外遊中の大統領に「国内問題の解決を優先すべきだ」と述べ、即刻帰国するよう要請。二十五日に現地視察したユドヨノ調整相、国軍司令官、国家警察長官に続きメガワティ副大統領も、週末にも訪問する予定だ。
解説・ダヤック人の怒り爆発
開発と無縁の少数民族
ダヤック人とマドゥラ人の血みどろの対立をもたらした原因は、スハルト政権時代に強行されたジャワ島から外島への移住政策(トランス・ミグラシ)だ。
カリマンタン島(ボルネオ)への入植は、プランテーション建設が進められたオランダ植民地時代の一九三〇年ごろにさかのぼる。
マドゥラ人の移住が増えたのはスハルト政権の移住政策が本格化した一九七〇年代から八〇年代。現在、十万人を超えるマドゥラ人は、この時期に移住させられ、すでに二世代に入った家族も多い。
「ダヤックは首刈り族」という偏見があり、移住政策は最初からダヤック人に差別的だった。マドゥラ人には、農地提供や職業斡旋が行われ、裕福なマドゥラ人の疎開地も形成された。
ダヤック人の本拠地の熱帯雨林が伐採され、木材輸出で外貨を稼ぐ開発政策がピークに達すると、カリマンタンの森林破壊が一挙に進み、ダヤック人は土地や森林を奪われた。以来、ダヤック人は生活環境の激変やマドゥラ人との経済格差に対する怒りに耐えてきた。
その怒りは、スハルト政権が弱体化した一九九七年と崩壊後の九八年、今回と同規模の紛争となって爆発している。
カリマンタン島にはジャワ人や華人も多いが、ダヤック人が対立してきたのは主としてマドゥラ人。そこには、二つの民族の間の対照的な文化の違いがある。
マドゥラ人はイスラム教徒で定住型の稲作民族。ダヤック人はアニミズムやシャーマニズムを基礎にしたキリスト教徒で、熱帯雨林を拠点に移動型の焼畑農業と狩猟生活に依拠している。
人権団体「行方不明者と暴力被害者のための援護委員会」(コントラス)のムニール氏は「サンピットの衝突は一過性の原因によるものではない。ダヤック人とマドゥラ人の間の経済格差や文化的な相違が大きく影響している」と語る。
現地調査を行ってきたコントラスは、昨年十月ごろから衝突の危険性を指摘しており、「今度の紛争は広大なカリマンタン島の他の地域に飛び火する可能性が高い」と警告している。
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