朽ちた墓石に沖縄の姓 協力募り、墓地整備 【甦る縁 沖縄と北スラウェシ】(第2回) (2012年12月08日)

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 「与那嶺亨 昭和15年没」「山城正雄 昭和20年没 海軍軍属」。北スラウェシ州ビトゥン市の丘の上。沖縄出身者らの墓石が32柱並んでいた。市内に住む沖縄県出身の長崎節夫(69)らが中心となり、2004年に整備した日本人墓地だ。

■「私は沖縄2世」

 長崎は太平洋戦争中の1943年、日本の委任統治領だったミクロネシアのポナペ島(現・ポンペイ島)で、カツオ漁業を営む沖縄県宮古出身の両親の間に生まれた。
 1歳のころに戦況が悪化して沖縄に戻り、大学卒業後は沖縄水産高校で教師として9年間勤務。退職後は、船頭として中西部太平洋やインド洋でカツオとマグロを追い掛けていた。
 1996年ごろ、長崎は漁船用の食料や燃料を調達するためにビトゥン港を本拠地に操業していた。そこで補給を手伝ってくれていた地元の男性が、長崎が沖縄出身と聞いて、「私は沖縄2世の人」と告げてきた。
 「私の父はここビトゥンで漁船に乗っていた」「沖縄の人の墓もある」。連れて行かれた公共墓地で、埋まりかけていたぼろぼろの墓石をスコップで掘り返してみると、そこには沖縄の姓が刻まれてあった。

■放っておけない

 墓石は、自分の父と同じ南方出漁した沖縄の漁民たちのものだった。「先祖の墓石を放っておけない」。長崎は何とか日本人墓地の整備をしようと思い立ち、沖縄の友人を通じて県紙の琉球新報と沖縄タイムスに実情を報じてもらった。
 在留邦人や在マカッサル総領事館(現・在マカッサル出張駐在官事務所)、沖縄県民などからの支援や寄付があり、日本人墓地は7年掛かりで完成。マナド市とビトゥン市にあった沖縄県人の墓石を移し、その数カ月後には沖縄から遺族らが慰問に訪れた。
 「継続管理が課題」と長崎。現在は月に1度、墓の草刈りなどを行っているが、手入れは大変な作業だ。「今後は北スラウェシに住む日本人の子孫を巻き込んで、整備方法を考えていきたい」と話す。

■つなげ水産高校

 長崎は今、沖縄水産高校の生徒が乗った演習船が北スラウェシを訪れ、ビトゥンにある水産高校の生徒と交流する計画を、沖縄に住む元同僚などとともに推進している。
 沖縄のカツオ漁業は現在、風前の灯火。「また南方へ出漁し、現地とともに発展することが沖縄漁業の繁栄を復活させる鍵」と持論を語る。そのときに先頭に立つことになる両国の水産高校の学生同士が、「今からお互いを分かり合っていたほうがいい」。
 「子孫は新たな交流の種」と長崎。熱い思いを口にした。(敬称略 岡坂泰寛、写真も つづく)

ビトゥンに住む長崎の自宅からは、戦前に沖縄漁民が行き来した湾を望める
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日本人墓地に並ぶ墓石。原型をとどめておらず、一見では墓石か分からないものもある
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