【ジョコウィ物語】(19) 当選、政治にうねり 個人が政党連合倒す

 2012年7月投票のジャカルタ特別州知事選。ジョコウィは闘争民主党(PDIP)に乗った。バスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)はゴルカル党国会議員からグリンドラ党に乗り換えて副知事候補についた。
 出馬のいきさつには諸説ある。メガワティの説明は、ジョコウィの敏腕に目をつけた元副大統領のユスフ・カラに説得され、了解したというもの。
 一方、グリンドラ党のプラボウォは、資金難のメガワティに数百億ルピアを提供して初めて出馬が可能になったと主張している。「プラボウォがジョコウィをソロから連れてきて、数百億ルピア支援した」と当時選対にいた同党ジャカルタ特別州支部長のムハンマド・タウフィックは主張する。だが、後に同党を離党したアホックはプラボウォ資金を否定している。
 ジョコウィ選対の参加者は多様だった。建設、不動産業を経営し、当時の知事のファウジ・ボウォと対立した住宅相のジャン・ファリズは中央ジャカルタ・メンテンの家を選対本部に貸した。ソロの伝統化粧品富豪のムルヤティ・スディビヨも支援した。選対本部長は闘争民主党の州支部長ボイ・サディキンが務めたが、ジョコウィ個人のスタッフが戦略を練り、陣頭指揮を取った。

▼圧倒的にファウジ有利
 6候補が乱立したが、実質ジョコウィとファウジの一騎打ちだった。自身をジャカルタ土着の民族「ブタウィ」と言う元州政府上級職員のファウジは、ジョコウィと対照的な人物で、選挙運動では自警団を連れ歩いた。07年の知事選は前知事のスティヨソから地盤を受け継ぎ、大小20党の推薦を集めて勝った。州議会の最大政党・民主党の支持を得て、建設・不動産業者の支援もあり、下馬評は圧倒的な有利を伝えた。
 ジョコウィは政党などの集票装置ではなく、個人を重視してイメージ戦略や政策を訴えた。カンプンを回り、ソロで成功した保健・教育カードの効力を説き、自身を応援するチェックシャツで選挙資金を集め、話題をさらった。選挙参謀の1人は当時、ジョコウィが首都最大の人口を持つジャワ人であることが強みになると見ていた。「変化を望む有権者」の獲得を競い合うのは、ファウジではなく07年知事選で20党を相手に1党で42%の得票をとった福祉正義党(PKS)と踏んでいた。
 第1回投票で、ジョコウィはファウジを突きはなした。危機感を抱いたファウジは開票後の記者会見でアホックを念頭に「ジャカルタはムスリムが多数派の大都市だ」と声高に言い、ネガティブキャンペーンに舵をきった。
 公務を終えた夕方、指導者の講話の形をかりてモスクを巡回、ダンドゥッド歌手とともに、アホックの華人でプロテスタントという出自を攻撃した。「ジョコウィも華人、父親はキリスト教徒」というデマも流し、多額の寄付を出した。火災現場で被災者が州政府の支援を求めると、「ジョコウィに投票するならソロに家を建てろ」と言い放った。
 誹謗(ひぼう)中傷はよく効いた。ファウジは他候補支持だった政党まで囲い込み、大小19党の推薦を得た。支持団体に限っては200を超え、政党と団体を独占した格好だった。

▼ドブ板で中傷に勝つ
 ファウジが追いかけてきても、ジョコウィはソロで9割得票した際の「自分で投票先を決める個人」にかけた。カンプンを歩き回る「ブルスカン(どぶ板)」を、メディアは盛んに市民に近い政治家が現れたととりあげた。
 ジョコウィは約8ポイント差でファウジを退けた。2党のみの支持にもかかわらず、政党大連合の組織力を退けたことは、2005年に始まった地方首長の直接選挙の短い歴史のなかで、画期的な出来事だった。期せずして、ジョコウィは地方選挙の申し子になった。
 ユドヨノ大統領の2期10年が、汚職疑惑の海に沈もうとしていた。ジョコウィの当選は、インドネシア政治の大きなうねりのほんのはじまりに過ぎなかった。(吉田拓史)

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【ジョコウィ物語】(18)ソロが生んだ国民車 中央への新たな「名刺」 (2014年12月01日)

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