「9・30事件」研究の最前線 書評『9・30世界を震撼させた日』(倉沢愛子著、岩波書店、2014年3月18日発行) 評者:小川忠(国際交流基金東南アジア総局長)

 最近のインドネシア映画界にとって最大の関心事は、米国アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞の候補となっている「アクト・オブ・キリング」が同賞の獲得なるか、ということだった。「9・30事件」後のインドネシアでの大虐殺を主題とするこの映画には賛否両論あって、国内では限られた機会にしか見ることができない。
 結局この映画のアカデミー受賞はなかったが、英国アカデミー賞やベルリン国際映画祭観客賞、山形国際ドキュメンタリー映画祭山形市長賞などの国際的な賞が授与されている。これは、内外で「9・30事件」への関心が高まっていることを示すものともいえよう。
 なぜ今「9・30事件」なのか。「9・30事件」とは、1965年9月30日深夜から未明にかけて大統領親衛隊ウントゥン中佐率いる部隊が、陸軍首脳を拉致、殺害し、革命評議会を設置したクーデターである。しかし陸軍戦略予備軍司令官スハルトによってほどなく鎮圧され、クーデターは未遂に終わる。陸軍はこの事件はインドネシア共産党(PKI)の陰謀によるものだとして弾圧にのり出し、PKI関係者、支持者ら50万人、一説には数百万人が犠牲になったといわれている。
 この事件をきっかけに初代大統領スカルノは失脚し、代わってスハルトが第二代大統領に就任する。インドネシア外交は「容共」から「反共」へと軸足を移し、中国と断交、西側諸国との関係を修復し、アセアンの成立を促した。インドネシアの権力構造、アジアの国際関係の構図を一変させるほどの影響を及ぼした大事件なのだ。
 しかしこうした一連の事態について、誰が事件の首謀者なのか、なぜ大虐殺が起きたのかなどなど、多くの謎に覆われているにも関わらず、厳しい情報統制を敷いたスハルト体制下ではこの事件の真相に迫ることはタブー視されてきた。
 30年以上に及ぶスハルト軍部独裁が1998年に崩壊した後、関係者の証言、軍や各国外交当局の資料が徐々に公開されるようになって、「9・30事件」研究がインドネシアのみならず、日本、欧米各国でも本格化してきたのである。
 日本では昨年、産経新聞客員論説委員の千野境子氏が、クーデターの筋書きを描いた者は誰かに肉薄する『インドネシア 9・30クーデターの謎を解く』(草思社)を発表した。同書を紹介した本紙書評(昨年11月16日掲載)において、評者は「9・30事件のさらに大きな闇」ともいうべき大量虐殺事件に国軍はどのように関与したのか、その真相解明の動きが始まっていると書いたが、本書の筆者、倉沢愛子慶応義塾大学名誉教授はそうした試みの先頭走者の一人であろう。日本軍政がジャワ農村をいかに変容させたかを詳述した研究でサントリー学芸賞を受賞した筆者は、本書の執筆においても豊富なフィールド調査と広範な先行研究の吟味で、「9・30事件」研究に一石を投じている。
 従来の研究において十分な目配りがなされて来なかった現代史が、第8章の「スケプゴートにされた華僑・華人たち」に記述されている。
 「9・30事件」後、「容共」「親中派」とみなされた華僑・華人に対する攻撃、嫌がらせがメダン、マカッサル、さらにジャワ島各地で相次いだ。過酷な状況に直面した中国系住民のなかには中国への引揚げ、一時的避難を望む人々もいた。北スマトラだけで2万から3万の中国系住民が中国への帰還を希望していたという。
 中国政府による北スマトラからの引揚げ事業は1966年9月から一年間行われ、数千人が広東省や福建省に用意された華僑農場に送られた。584カ所に設置された農場のうち、今なお引揚げ者が居住している農場を、筆者は訪ね住民への聞き取り調査を行っている。中国に「帰国」した華僑・華人たちの多くは、まもなく始まった文化大革命に遭遇し、スパイ扱いされたり、下放政策の対象とされてしまい、自殺者も相次いだという。インドネシア華僑・華人にとって、故国は安住の地ではなかったのである。
 「9・30事件」をきっかけに発生した華僑・華人に対する迫害と、迫害から逃れるために中国に引揚げた人びとのその後の苦難の道のりの記述には、国家によって翻弄される個々人の運命を照射する、筆者の一貫した長年の研究姿勢がここでも発揮されている。
 さらに評者が注目したいのは「第6章 大虐殺」で、東ジャワ、中部ジャワ、バリで発生した大虐殺を比較分析している箇所である。「共産主義VSイスラム、つまり無神論イデオロギーと非寛容な宗教の対立が憎悪の炎を燃え上がらせた」という見方、すなわち大虐殺は文化的摩擦から発生したと見る文化主要因説もこれまで語られてきたが、筆者はこれに与せず各地の政治、経済、メディア他の社会状況を分析し、虐殺発生の背景にはその地方それぞれの特有の政治事情・状況がからんでいることを明らかにしている点だ。
 今も世界で続発する集団大量虐殺のメカニズムを解明する上で貴重な視点を、本書は提供している。

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